誤植発見マシーン

 誤植(というか漢字変換ミスや打ち間違い;面倒だから以下誤植で総称)を見つけるのがどうやら得意らしい。

 

 らしい、というのは他の人はそうでもないらしい、ということにここ数年で気付いたからであり、いや、しかし今でも実際のところ、「他の人は気付いていても黙っているだけで、私は見つけたら嬉しがって指摘するからではないか」という疑いは隠し持っている。だって分かんないもん。

 会議資料が配付され、ざっと目を通す。と、なんか訴えかけてくる文字がある。あ、なんか違う。観察すると誤植。「すみません、ここのこれなんですけど」と指摘する。主語述語の不整合などもなんか気持ち悪い。にょ?と思ってよく見るとやっぱ違う。

 これ、考えてみるに、あんまり大脳通してないんですよね。いや、中途半端な脳用語を使うのはよくないな。私個人の感覚としては、あんまり脳みそ使ってる感じがしない。考えてたどり着いているのではなく、感じ取っている水準なんです。頭脳と云うより皮膚感覚というか、そこで違和感をキャッチしたあと、脳みそ通すことで認識・確認しているんじゃないかなあ。どうだろう。

 それは例えば、家の灯りのスイッチのようなものかもしれない。何も考えずに手を伸ばしてスイッチを入れる。スイッチの位置を頭で考えずとも、なんとなく手を伸ばして電気をつけられる。引っ越した直後などはその感覚がリセットされるため、しばらく意識して処理しないといけないけど、生活がある程度続くと「どこに何があるか」は意識せずとも行動できるようになる(あまり関係ないが、引っ越し直後に料理するときにひどく困惑した。「あのお皿がどこにあるか分からない」ことによる疲労が半端なかったのだ)。

 私は言語も、そういう感覚レベルでの処理をしているようで、にょろーんと斜め読みをしていても引っかかる、こともある。たぶんそれは、料理人さんが天ぷら油の音で適温を判断するような、職人さんが表面をひとなでして肌理(きめ)を判断するような、そういう感覚的な判断だと思う。……ちょっといいふうに云いすぎか。

 

 しかしそれ、当たり前のことのようにも思うんだけど違うかなあ。私たちは言語活動が主になっていると、言語的処理のほうがすぐれているように思うけど、言語は常に後追いに過ぎないわけで。「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」というジェイムズ=ランゲ説なんて持ち出してペダンティック気取ってもいいのですけど、私たちの認知や言語的理解なんて、かなり粗雑だと思うんですよね。1mmってすごく小さい単位のように見えるけど、髪の毛から比べたらそうとう大きなサイズですし、私たちの口腔は髪の毛一本くらいわけなく異物として認識する。

 ……とは思ってるのだけども、まあそういう感覚入力なんてものは人によって処理水準も違うみたいなので、個人差もあるのだろうな。あ、そういえばこの誤植発見マシーンとしての性能は、どうもディスプレイ上の文字では発揮しにくいみたいで(それでも見つけることはありますが)、あれはなんなんだろうなあと思う。紙に印刷されないと、ダメなんですよね。このあたり、私が電子書籍に(そこまで)移行できない理由かもしれない。斜め読みが本当に斜め読みで終わっちゃうんです。