ネガティブ思考を肯定すること(ポジティブ教に負けないために)

 表通りを堂々と歩ける人は歩いて行かれたらよろしいので、どうしようもなくネガティブな人がどうやっていくか、と云うお話。

 

 どうも、ポジティブ教の人たちはその布教に余念がないようで、ネガティブ思考の人がいると「そんなネガティブじゃいけないよ、もっとポジティブになろうよ」とか云ってくる。そこまであからさまじゃなくても、折に触れてポジティブ思考の効用が説かれる。否定的に考えることは時間の無駄だ、いいことを探してポジティブに行こう、と。

 

 まあ、私も、ポジティブに考えるほうがいい、と云うスタンスではある。そりゃそのほうがいい。でも、それ、そんな簡単にできることじゃないねん。

 これ、就活のセミナーとかでよく説かれるみたい。もっとポジティブに考えていきましょう、自分のいいところを見つけましょう、否定的に考えるよりも自分の肯定的なところを探していこう、それを見つけたら自分でPRしていこう。

 重ねて云うが、それができるならそれにこしたことはない。でも、それができないから、ネガティブ思考の人はネガティブなんじゃなくって?

 それを説かれたネガティブ思考の人は、(私ほどひねくれてなければ)こう思う。ああ、やっぱりネガティブな私はダメなんだ、こんなネガティブじゃまわりに迷惑が掛かる、でも抜け出せない。どうしたらいいんだろう。やっぱ自分はこの世に生きていても仕方ないんだ。こんな自分、仕事なんてできるわけがない。足を引っぱるだけだ。お金を貰うなんてとんでもない。社会の役に立てない自分は死んだ方がマシなんじゃ。

 

 ポジティブ教の人たちは、自分たちの“教義”が斯様に人を追い詰めることに気付いておられるのだろうか。彼らは往々にして、ポジティブで「なければならない」というスタンスを取る。ポジティブで「いた方がいい」のではない。「そうでなければならない」のだ。どうしてそこまで頑ななのか、と思うくらいに。

 そう、彼らのポジティブには、ネガティブを受け入れる余裕がない。「そういう考えになることもあるよね」と云うスタンスではないのだ。それはもしかしたら、彼らにネガティブをのぞき込む力が欠如しているからかもしれない。彼らはそういう考えを排除している。排除しているから、そこに近づけない。不用意に近付くと、呑み込まれてしまうからだ。

 

 本当の意味でポジティブな人は、自分の中にネガティブな要素もあることを知る人だと思う。そもそも、生きることの孤独を考えたら、いつか死ぬことの意味を考えたら、ネガティブなイメージは浮かんできても不思議ではない。不思議ではないのにその考えが奇妙に排除されているようなポジティブ思考は、単純に「ネガティブなこと」を受け入れる余裕がないだけだ。真の絶望を知る人の、だからこそ生まれるポジティブな考え方がある。それは、否定的な要素も併せ持った上でのポジティブな発想となる。

 

 今のところ、私はこう考えている。ネガティブな発想をする人は、往々にしてネガティブな発想をする自分に対してもネガティブになっている。こんな自分じゃいけない、と思いがちである。それを無理矢理ポジティブに持っていこうとしてもいいことはない。ではまず何をすればいいか。ネガティブな発想をする自分に対して、まずは肯定的になることだ。ネガティブな自分を否定しない。まず、そうある自分はそうある自分としておく。なんなら、「ネガティブで何が悪い」と思えればいい。そうすれば、「ネガティブな自分に対してポジティブ思考を取る」ことができるのだ。

 

 ネガティブな自分がいることを受け入れること。これは簡単なことではない。でも、長い間ネガティブな発想が染みついている人に、急にポジティブになれなんて云われてもできるわけない。そうなんだったら、まずは自分がネガティブでもいい、と思うこと。ネガティブな自分とちゃんと握手すること。認めてあげること。そこだけでも充分なのではないだろうか。

 

 ポジティブじゃないと生きていく価値がない、かのような言い方はひどく無神経な物言いだ。いろんな人がいて、世の中って成り立ってるもんじゃないですかね。背の高い人もいれば低い人もいる。男性的な男性もおれば女性的な男性もいる、その逆も然り。いろーんな人がいるのが当たり前だ。だとしたら、ポジティブな人もいれば、ネガティブな人もいる。それでなんの問題があるというのだろう?

 就活で生き残れないから? そんなポジティブな人しか受け入れないような世の中だから、ニートが増えるんじゃないの? 若年層の自殺率が高くなるんじゃないの? 何が起きてもその人の責任であると追い詰め、ダメなのはお前の心がけが悪いからだと責める、そういう社会が人の生きる居場所をどんどん奪ってるんじゃないの?

 

 今の世の中、何かあると「予算がない」ことをいいわけに、競争原理をどんどん働かせようとする。でもそれ、社会的損失だと思うんだけどなあ。「できる人」だけで構成されていても、社会は回らないよ。四番バッターだけでチームが組めるとお思いなのだろうか。ホームランバッターも俊足選手も、あるいはベンチの選手もコーチも、いろんな人がそれぞれの特色を活かしながら生きているような世の中でなければ、どんどん縮小していくだけじゃないのかな。

 あの、これ、実は経済的にも意味がありますよ。競争原理を働かせ、価値あるものだけが生き残る世の中になると、価値のない人は生活保護などの社会資源でなんとかするしかなくなっちゃうじゃないですか。そうなるまえに、いろーんな人がその人なりの働き方で、社会に居場所ができる方が、経済も拡大するし税収も増えると思うんだけれども、如何なもんでしょうか(ただこの辺はシロウトなので間違ってるのかもしれない)。

 

 例によって話は脱線したけれども、ネガティブな人はネガティブな自分を認めて、ネガティブなりに社会とかかわっていけるようなポジションがある方が豊かな世の中だと思うし、競争原理を働かせて強者のみ生き残る方向性を進めていくと、実は社会主義国家とそんな変わらなくなると思うんですけど、どうでしょうね(だって、強い一者がいればいいし、そういう方向を国が推し進めていくと、それって国有企業とほぼかわらへんのちゃいますのん)。

 ま、そんなマクロな話は置いといて。とりあえず、ネガティブなりに生きていきましょうよ。少なくとも私はそうありたいです。