ハラスメントと日本型社会(1)

 セクハラ疑惑に対し「だったらおまえが名乗り出ろや」とパワハラで返すという高等テクニックに、ああこれって日本型社会の持つ特質かもしれないな、と思ったのでぼんやりと綴っておく。

(長いのって読みにくいのかなあ、という反省?から、試験的にいくつかに分けて投稿してみる。)

 

 最初に、「日本型社会がすべてダメだ」という論に与しないことは述べておく。だいたい、なんでもいいことがあれば悪いことがあるのだし、すべてダメだという論はアジビラにはなっても論にはならない*1。「二つよいことさてないものよ」は河合隼雄座右の銘だが、なんにおいてもいい面と悪い面がある。しかしそれは、悪い面が免罪されることを意味するものでもない。両面を冷静に見据える目が必要になるだけである。極論は阿片でありどこか人を心地よくいざなうのだが、葛藤こそが人を成長させる。

 

 「オレの酒が呑めないって云うのかあ?」などがアルハラなのかパワハラなのかはともかく(どっちでもいい)、つまりそこにあるのは極度な「身内」感覚なのだろう。相互的「甘え」の世界と云ってもいい。義兄弟の杯ではないが、同じものを食べ同じものを呑むことによって契りを交わす。食事は単なる生命維持の営みではなく、共同体的営みでもあるので、共にすることで仲間意識を見出す。「オレの酒を呑む」ことを拒否することは、共同体に属すことを拒むという意味を持ち、それが共同体への挑戦と見なされるため危険視されるのだろう。

 この「身内」感覚は、西欧的近代自我からは遠いところにあるものだが、しかし我々が社会的生命を営む生きものである以上、どこかで必要とするものでもある。ことばを学ぶこと自体が社会的相互作用によって生じるのだから、我々の成長は相互作用とともにある。まあ、平たくいうと、人は人に育てられることによって人間になる、ってやつです。人とのあいだで生命を営まないとことばも覚えられないし(あ、オオカミ少女は嘘だったとか云う本を以前読んだな)、社会常識も身についていかない。だから我々が社会的に生きていく以上、どこかで共同体とともにあり、「人とつながっている」感覚は決して軽んじてはいけないものであるだろう*2。これはおそらく、洋の東西を問わない。

 

 さて、この「つながり」が持つ弊害について、は続きへ行ってみよう。

 

librairie.hatenablog.com

 

 

*1:アジビラって云うのはアジの開きの古い云い方です念のため(嘘)。

*2:認知症が、人とのかかわりの如何によってその進行が早まったりするのは、人の言語機能が共同体感覚と関係しているからでしょう。