こころとことば(小沢健二「アルペジオ」に寄せて)

 ことばが伝わる、と云うことの不思議さ、についてはこれまでも何回か書いているけれども(同じことしか書いてないかもしれないけど一応リンクを下に貼る)、おそらくそのことについて。

 

 私はツンデレが好きなのだが、いわゆるテンプレとして「べ、別にあんたのためにやってるんじゃないんだからね」というセリフがある。あれは字義通りに取れば、「この行為はあなたのためのものではない」という内容を意味しているだけだ。しかし、「あなたのためではない」と語っているそのことばが、「あなたのためである」ということばを裏返しで表現したものになっている、というのがいわゆるツンデレのテンプレである。小さな子どもと探しもの遊びをしているときに、子どもに「ここには何もないから!」と云われたらああここにあるんだな、と感じるのと同じだ。

 

 ことばはほんとうの内容を伝えているとは限らない。しかし、その内容ではなく、それを語る行為によって伝わる何かがある。

 

 小沢健二は1997年の「ある光」を最後にほとんど新作音楽を披露していなかったが、「流動体について」で2017年に復帰して*1以降、断続的にシングルを発表している。「ある光」で「この線路を降りたら虹を架けるような誰かが僕を待つのか」と問いかけを残してJFK空港へと向かった彼が、「流動体について」で「無限の海は広く深く でもそれほどの恐さはない」との決意を胸に羽田に降りたっている、とのことは置いといて新曲の「アルペジオ」。

  この曲は小沢健二の畏友岡崎京子の『リバーズエッジ』映画化に寄せてその主題歌として作られた曲で、歌詞のラップ部分において岡崎京子が想定されているとおぼしき歌詞がある。

 

   小沢くん、インタビューとかでは何もほんとうのこと云ってないじゃない

(歌詞サイトの歌詞とはちょっと違うけどまあ許して;以下同じ)

 

 「何もほんとうのこと云ってないじゃない」はなかなか鋭いことばだ*2。彼のフリッパーズ時代の歌詞に、「いつでも僕の舌はいつも空回りして 云わなくていいことばかりがほら溢れ出す」(午前3時のオプ)といったものがあるが、空回りして云わなくていいことばかり云っている彼のことばの、その「内容」には何も意味がないことがここでは見抜かれている。たくさん連ねられ、時には衒学的ですらあるかもしれない彼の「ことば」に、「ほんとうのこと」がなく、ただ空回りしてるだけだよね、という視点がここでは示されている。つまり、「ほんとうのこと云ってない」という指摘は、「ほんとうのこと云ってない」という「ほんとうのこと」を明らかにする働きかけなのだ*3

 

   朝に道を聞かば 夕べに死すとも可なり(論語

 

 「インタビューとかでは 何もほんとうのこと云ってないじゃない」でもう一つ面白いのが、インタビューとかで「は」と語られていることだ。「は」は限定を表す助詞であって、「それ以外」を意識させるものである。例えば、「お茶は要りません」ならばほかのは欲しいのかもしれないと云うことだし、「高校生の頃はよかったんです」なら中学生や大学生の頃はよくなかったと云うことかもしれない。つまり「インタビューとかでは」ほんとうのことを云わないのなら、何かではほんとうのことを云っているのだ。それは何か。

 当然、作品であろう。小沢健二岡崎京子も(あ、どっちもイニシャル一緒やん)作品を作りことばを届ける人である。小沢健二は歌を、岡崎京子はマンガを。歌を通し漫画を通し、彼らは「ほんとうのこと」を届け、伝える。作品でのことばが、彼らにとって「ほんとうのこと」なのである。

 

 「アルペジオ」の歌詞では、次のような歌詞がある。

   魔法のトンネルの先 君と僕のことばを愛す人がいる

   ほんとうのこころは ほんとうのこころへと届く

 「魔法のトンネル」とは彼らの作品のことなのだろう。作品が届けられた先は、彼らの直接目には触れないし分からない。でも彼らのファンとして彼らの「ことばを愛す」人がいる。「嘘っぱちのなか旅に」出ていた人が、魔法のトンネルの先に「ことばを愛す」人がいることを知り、ほんとうのこころがほんとうのこころに届くことを知る。

 この歌詞、少し後では一部だけ変えて届けられている。「君と僕のこころを愛す人がいる」と。つまり、ことばを愛す人がおり、それがほんとうのこころに届いていると知った今、ことばだけでなくこころが愛されていることに気付く。作品を作るというのは孤立した行為ではなく、多くの人との中で想いを循環していく営みだと知る。そのことによって、「汚れた僕ら」が含まれている「汚れた川」は、「再生の海」へと繋がっていると実感するのだ*4

 

 ことばは、ほんとうのことを云わないこともある。しかし、私たちがこころを分かりあうのは、そのことばによって、である。ことばを通じこころから目を逸らさせることもできるのだが、その「目を逸らさせる」行為そのものが伝えるなにか etwas も、言語行為の中にはある。ツンデレはその典型だ。「あなたのことなんか全然気にしてないんだから」という言表は、「すごく気になっている」という表現では、ない。ツンデレを裏返す必要はなく、「全然気にしていない」という形でしか伝えられない「気になっている」を伝えることばなのだ。

 

 そもそも、ほんとうのことそのものをことばで名指す必要はない、し、それは名指し得ないものかもしれない。ことばで名指せたと思った瞬間そこからはいなくなる幻かもしれない(「ラブリー」MVエンディングのように)。しかし、それでもなお、なんらかのかたちで伝える必要がある。ツンデレ表現のように、「全然気にしてない」という云い方こそがその人のこころのありようにフィットしていることもある。ただ「悲しい」と云うより、「悲しくなんかない」ということばのほうが伝える悲しさもある。

 こころの本質は、名指しようがないかもしれない。それが伝わらないことに絶望しことばを発したくなくなるかもしれない。沈黙しかないと思うかもしれない。

 でも、やはり、「悲しくなんかない」のほうがまだしも近いのであれば、「悲しくなんかない」という表現で伝えることを是としたいし、その表現を、裏返したりもせずそのまま受けとめられる存在でありたいと思う。 

 

   「神は細部に宿る」って君は遠くにいる僕に云う 僕は泣く

 

 そう、神は細部に宿る。ことばも作品も、その細部を伝えるためにある。

 

 

librairie.hatenablog.com

 

 

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*1:細かく云えばその間も諸々あるけども。

*2:「ほんとう」は、小沢健二の歌詞の密かなテーマであると思う。「ほんとのことが知りたくて 嘘っぱちのなか旅に出る」と歌っていた「ドルフィンソング」が「ほんとうのこと云ってないじゃない」と指摘されたころだろうか。どこかにあるほんとうを探し求める彼の姿は「夢で見た彼女と会ってfeel alright」(ラブリー)にしても「それでいつか 君と僕とは出会うから」(痛快ウキウキ通り)にしても顕著であって、ある意味恐ろしいことに一見ハッピーなふたりの出会いを描いているこれらの歌は、どちらも彼女と「未だ出会っていない」のだ。これ、また暇あったら書く。あ、「ラブリー」は出会ってるのかもしれないけど、ラブリーのMVが「夢オチ」で描かれていることから「まだ出会っていない」のだと私は考えている。

*3:ツンデレを見抜く目、と云ってもいい。

*4:あ。汚れた川って『リバーズエッジ』内での比喩だったりするのかな。岡崎京子はちゃんと読んでいないのです。