自由に意見を云うこと、それを受けとめてもらうこと

 『ベルリンフィルと子どもたち』というドキュメンタリー映画若い人たちと見る機会があった。これは、世界最高峰のオーケストラであるベルリンフィルが、地域の子どもたちを集めてバレエを公演するという教育活動をフィルムに収めたものである。ベルリンに住む移民の子どもたち、あるいは社会階層としてかなり低い位置にいるだろう子どもたちが、バレエ(しかも「春の祭典」!)を踊ることになり、振り付け師の人からダンスを教わるのだ。ダンスのダの字もなかったような子どもらが、反発しながらも自ら目標に向けて努力するようになる姿は、身体運動を通した教育の可能性を教えてくれる。もちろん、低階層の子どもたちの無気力感もまざまざと目にさせられる。

 

 私の中のクラシックオタクの血が、ハルサイ(「春の祭典」の通称)をラトルがこう振るんだ!とかの楽しみもありながら見てたんだけれども、若い人の感想で少なからずあったのが、「あんなふうに先生や友だちに対しても自分の思ったことを云えるのが驚いた」というものだ。

 そこ?! そこ驚く?!

 何気ないシーンである。こう踊れという先生に反発したりその反発に違う意見を云ったり。「違う意見を云う」ことに対し、そんなに違和感があるのか、と。

 

 映画内で指揮者のラトルが自身の子ども時代を振り返っていたのだが、どうもあまり適応はよろしくなかったらしいことが伺われた。集団に埋没することができず、飛び出てしまうタイプの少年だったようだ。振り付け師の男性もまた、集団適応はあまりよろしくなかったらしい。どちらも集団に所属感を得られず、そうした彼らがこうした教育活動に携わっているのもなかなか興味深い。

 そういう「飛び出てしまう子」を、我々社会はどのように扱っているのだろうか。日本の社会では、どこか「飛び出さない子」を量産しているのではないか。若い人たちの感想を見て、そんな疑問が湧いてきた。

 

 先日、小学校6年生の授業を垣間見る機会があったのだが、そこで行われていたのはディベートである。「小学生の携帯使用」に関するもので、賛成派と反対派に分かれ、それをジャッジするという形式でやられていた。

 しかし……賛成・反対に分かれてディベートするのは、一つの学習方式としてはいいと思うんだけれども、そればっかりに長けてしまうのは如何なものか、とも思うのです。

 現実問題、世の中でそんな賛成派と反対派に綺麗に二分されることはなく、なんでもグラデーションで構成されている。賛成と反対は状況によって異なると云うことはあるだろうし、考え方によっても異なるだろう。それを賛成派・反対派に分けてディベートさせ、聴く人の多数決でどちらかを決める、というのは、ある意味乱暴な議論であるようにも思うのだ。

 人は一人一人考え方が異なる。性別にしたって、伝統的な男性像・女性像だけでない多様な在り方が現在模索されているところである。いろんな人が、しかしある程度共通したルールに基づいて運営していこうとするのが現在の社会であるのならば、「多様な意見に基づきながら、可能な限りの合意形成を図る」という方向でのディスカッション(notディベート)をやるという形の教育もアリなのではないでしょうかねえ。

 

 「多くの賛同を得た方が勝ち」というルールで行われるディベートは、ある種のゲームとしては面白いし、思考実験にもなるし、戦術の必要性を学ぶなど、それも一つ学んでほしいことではあると思う。でも、その発想が学校教育の中で押しつけられて、日本人の同調大好き傾向と結びつくと、少数意見を尊重するなどという考えは全く浮かんでこず、「みんなと同じ意見で飛び出さないように」と考えるのがデフォルトになってきても不思議ではないんじゃないか。

 

 学生たちの「自由に意見を云うのに驚いた」という発想の源泉がディベートにあるとは思わないし云わない。でも、「世の中にはいろんな意見があっていいし、一人一人意見は異なるもんだし、それを話しあう中でお互い合意できる策を見出していけるのが人間社会だよね」という前提、ことのほか大事なんじゃないだろうかね。自分の意見は自分のものだし、もちろんそれは自分でもしかと分かってなかったりすることもあるけど、それでも内側に意識を向けて自分の感覚と対話し、その中で自分の納得(身体感覚無き納得はただの合理化であろう)する意見を見出し、それがちゃんと受けとめてもらえること。その機会はとても大切にしなければなあ、と思うのですよ。

 

 ま、ラトルと同じく飛びだしてしまう傾向がある私だからそう思うのかもしれないけどね*1

*1:今現在「障害を持つ子どもたちの支援」として、飛びだしてしまう子どもたちを別の枠で処しようとする傾向が、子どもたちの同調圧力を促進している側面がないだろうか、との自戒はどこかで持っておきたい。「特性に合わせた支援」が「排除の論理」に陥ってしまうことは少なくないだろうから。