ゆうびんやさん、だいじょうぶ?
ちょっと気になったこと。
昔々。
年賀状を見ていたら、けっこううろ覚えの住所があった。
漢字が違う、番地が違うくらいならまだしも、町名が途中までしか書いていないとか、隣町が書いているとかもあった。でも、それでも、おそらくフルネームの漢字を頼りにして(「○○町の××××さん? ああ、これは△△町なんじゃないか?」的な)、届いていたりした。漢字も町名も間違っているものでもそれなりに見ていたりしたから、「郵便屋さん、よく頑張ったなあ」などと思っていたりしたもんだ。
しかし、ひょっとしたらここ数年。
それが壊れてきているように思う。
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きっかけは数年前、引っ越しをしてからのこと。
年賀状がちょっと減ったという疑惑が生じた。正確に云うと、父母からの年賀状すら届いていないことがあったのだ。
「あれ、そういや今年送ってないの?」
「え、届いてない? ちゃんと期日までに出してるよ。また出すわ」
「いやそんなわざわざいいよ」
的なやりとりをしたことがあった。
んー、なんでだろう、とか思ってたんだけども。
別の機会(正確に云うと上記より先)。
知らない人(正確に云えば、同姓の人)の郵便物がうちに入っていた。
ちなみにこれは、名字が同じなだけで、番地は違う。その方の番地として書かれていた数字が正しかったのか私には確認しようがないけれども、少なくともうちの番地ではなかった。まったく違っていたので、その人の番地である可能性は高いと思う。
「ありゃ、誤配かなあ」って理解して、郵便屋さんに連絡して善後策を訊いた。
同じことがもう一度あった(正確に云うと年賀状よりあと)。
考えられること。
1)たまたま誤配が続いている
2)町内の番地の違いを識別できない郵便局員(仕分け人)がいる
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これ、全国で起きているような気がするんですよ。
ちょっとサンプル数が少ないんですけど、「珍しい名字(但し旧姓)の方に送った郵便物が届いていなかった」、「ありふれた名字の方に誤配が最近多い」という情報をちょろっとつかんだんですよね。なお地域は全然違います。ええ、全然。
私のところも上記二件の情報も、関東圏ではないけれども、その圏内においては主要都市と見なして差し支えのないような場所です。北海道なら札幌、東北なら仙台、中部なら名古屋……など、具体的に云うなら「区」があるくらいの都市部です(うち一件は違うがそれでも充分都市部)。
これらの情報から考えて、
「郵便屋さんの誤配は、以前より増えた」
=「郵便屋さんの仕分けに、プロが減った」
という仮説も、成り立つのではないか、と。
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沢山の情報を処理していると、細かい違いって見えにくくなるんですよね。番地によって区分されてて、名字があって、だと、細かい数字は見ずに「はい、たぶんここね」と処理しちゃうことって、起こりうると思うんです。
ヒューマンエラーは、絶対に起きる。
ただし、それを起こさないように、いろんなフェイルセーフがある。
この、フェイルセーフが機能しにくい時代になっているのではないか、と。
「これを英語でテキザイテキションと云う」
そういう、細かい違いに気付きやすい人っているんですよね。私も会議で、「すみません、ここ漢字間違ってます」とかいちいち指摘して嫌がられてるんですけれども、私そういうの気付くタチなんです。莫迦だから。
でも、そういう莫迦だからこそ、気付ける違いもあるんです。
「ん? お前は新入りかい? じゃあしっかり憶えなさい。
同じ町内で名字が一緒と云えば、44番(仮)の○○さんはXさんとYさんとZさんの3人家族で、79番(仮)の○○さんはPさんの一人暮らしだから、まあ下の名前さえおぼえれば大丈夫。
難しいのは38番(仮)と83番(仮)の△△さんで、更に難しいことに、38番は智子(仮)さんで83番は知子(仮)さんだから、うっかりすると間違えてしまうんだよ。要注意な。」
この、本当に微妙な違い(例えば鈴木知子さんと鈴木智子さんが同じ町内にいる状況か)があっても、「それでもなんとか届けていた」のが、民営化前の郵便局なのではないだろうか。いつの間にかそれが、郵政民営化だのなんだの、効率化・顧客サービスを求める声に押されて、そうした現場の知恵を持つ貴重な人材が、そのunconsiousな知恵ゆえに「エビデンス」もなく「数量的裏付け」もなく駆逐されてしまい、残るは責任感の少ないバイト(あるいは所属意識やresponsibilityを持ちようもない契約社員)が「ただ仕事を処理するためだけの頭数」としてしか必要とされていないということなのではないだろうか*2。
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そういう、どうでもいいところに気付いて憶えていて、鈴木知子さんと鈴木智子さん(鬱陶しいが、仮、です)が違う人だと識別できるような能力を持つ人って、だいたいにおいて、人とのコミュニケーションがうまく取れなかったりするんですよね。対面での情報処理はすごく下手。視覚と聴覚とが同時に押し寄せると混乱してしまう。
でも、文字情報を識別するのはとっても上手。もし隣町に鈴木朋子さんがいたとしても、その違いをしっかりと区別して、「この人はここだよね」とちゃんと仕分けができたりする。そういう人って、(もうこれは100%推測なんだけど)いたんじゃないかなあ。
20年前、30年前がよかったと云うつもりはないんだけれども、そういう「ちょっと変わった人」でも、それなりにお給料がもらえて、昇給とか昇進とかはあまりのぞめないけど、現場にずっと立ってたらしっかりと仕事はこなしていく人、いたはずですよね(私の脳内ムービー『太秦ライムライト』)。
でも、バブルも崩壊して、社会人基礎力だのコミュニケーション能力だの、そういう皮相なところばかり評価されるようになると、みんながみんな、プレゼンだのなんだのばかりやらされるようになる。
いや、プレゼンの重要性は否定はしません。でも、みんながみんな、プレゼンがうまくなればいいってもんなの? 世の中のどの人も、TEDのメソッドを叩き込んで、笑いの取れるプレゼンができればいいってことなの? いや、そういうことで上手に社会と渡り合えるようになるのならそれはそれでいいんだよ。でも、そこまでうまくない人でも、(そんなにお給料は貰えないかもしれないけれども)世の中で「普通」に生きていけることこそが、「産まれてよかったなあ」って思えるような、そういう社会になるんじゃないのかなあ。
「コミュニケーション能力」とか「プレゼン能力」のみが評価されて、そういう細かいところの識別能力が軽視されているような世の中だとしたらーーあまつさえ彼らを「○○障害」としてしか扱えないような世の中だとしたらーー、実はこれ、社会の損失なのかもしれない。こんなことは今までも何回かまとめているけど、本当にそう思います。
だから、ちょっと変わった人で偏屈でもいいじゃない。そういう人が、曖昧な住所でもちゃんとボクのところに年賀状を届けてくれて、旧姓の人にも番地が合ってたらちゃんと郵便物を届けてくれて、同姓の人が町内にいても番地でしっかりと区別してくれる。それこそが、本当の「豊かさ」なのだと思う。
……誰だ? 「そんなんだったらもう郵便局を使わなければいいじゃない?」って云ったマリーアントワネットは?