遠隔に合う人合わない人、種として生きのびるということ

 遠隔授業になって、大学で単位を取りやすくなった学生、というのは一定層いるわけで。対人場面での圧力を強く感じる傾向の学生さんとか、ASD的な、大量の情報で混乱してしまう学生さんとか、朝起きられない学生さんとか。今まで、ギッリギリの単位で大学に来ていた学生さんたちが、コロナのおかげで「卒業が見えてきた……」という話は、まあ耳にします。

 もちろんその逆で、「今まではそこそこ単位が取れていたのに、コロナになってから全然ダメ……」という学生さんもいます。ある種のリア充層というか、対面でのコミュニケーションなら強いけど機械系に弱い学生さん、と云うのもおられますし、同じ発達でもADHD系というか、沢山の情報があると目の前のものに飛びついてしまって、全体像が見られないタイプの学生さん、というのもあるようです(ADHD系でも、高速回転系の人は大丈夫なようですが、一つのことに過集中してしまうタイプの人が弱いのかな、ちょっとこの辺はまだわからん)。まあ、何でもメリットとデメリットはある、と云うことです。

 

 これはもうただの妄想でしかないのですが−そしてそれはおそらくないと思うのですが−、「今まで、難病であったある疾患が、コロナ禍を生き残るキーになっていた」ということがあるかも、あったら面白い、なんてことを思います。どうして人類がこんな病気にかかってしまうのか、と思われるような、存在すら忌避される疾患が、実はコロナに強いことが発見された、とか。まあ、そんなことはないと思うのですが、人間のある病気が、なにかの状況下では強みを発揮する、ということがあってもいいのでは、と思うのです。

 

 この発想は、おそらく中井久夫の『分裂病と人類』が背景にあります。と云っても、何が書かれていたかは記憶の彼方でしかないのですが、中井は、統合失調症の妄想などにある、「ちょっとした徴候をつかまえて、それを全体へと敷衍し、意味を読み取る」行為を、「積分的」と理解し、これを「徴候空間優位」と名付けました*1。それは、狩猟民族などでは有効な能力で、遠くの空間にあるブッシュのちょっとした動きを捉え、そこに獲物が潜んでいることを察知する。それが、狩猟においては欠かせない能力である、と中井は云います(多分……)。

 都市の、また農耕民族的な、決まったことを丹念に繰り返して遂行する能力が重用される時代には、その能力はあまり活かされることがありません。そのため、そうした徴候空間優位な人は、現代社会では生きにくく、統合失調症などの不調を引き起こすのでは、というのが中井の考えにありました。このことは逆に云えば、統合失調症の持つ妄想なども、ある種の状況下においては、生かしうる能力なのでは、ということでもあります。つまり、人間が種として生きのびるためには、現在の社会では統合失調症として扱われる人の持つ能力も、環境の変化によっては必要になることなのではないか、と。

 

 家庭菜園などをやっているとよく分かりますが、同じように撒いた種でも、芽が出ない種というものも存在しています。ホームセンターで買ってきた種の袋を見ると、「発芽率」なるものが書いていたりもしますね。同じ状況下でも、芽が出る種と出ない種がある。その「出ない種」は、しかし、ひょっとしたら種としてその植物が生きのびるために確保されている多様性なのかもしれない、今の温暖な環境下では芽が出ない種になってしまうけれども、地球環境の極端な変動があり、温暖が確保されない環境下では芽が出る種なのかもしれない、などということを思います。

 

 今、芽が出る種だからと云って、どんな環境にも適しているとは思えない。

 

 現在の「キャリア教育」なるものを見ていると、時にその点を忘れているかのように思えることがあります。今の環境に適応することが第一であって、そのために最大限の努力を持って対応する必要がある。基礎となる能力を獲得し、それを最大限発揮することが大切だ……と謳われているように思います。

 今、繁栄している産業も、時代が変われば傾いていく。私の若い時代は、テレビ局と云えば花形産業でありましたが、おそらくそれは映画に取って代わられたものであり、そして今はyoutuberに取って代わられているのでしょう。むろん、「その変化に対応できる柔軟な力を……」と発想することも可能ですが、しかしそれが「求められる鋳型に合わせていく力」にあるかどうか、私には分かりません。

 現在、多様性が謳われ、少数派の権利の尊重が叫ばれております。しかしその一方、現在マジョリティとされている人たちの反抗も、それと同じくらい強くなっているように思います。「人類の調和と進歩」はいつになったら達成されるのでしょう。

 

 そんなときに、もう一つメタな目で、「今、栄えているどのような種も、たまたま今の環境が合っているだけに過ぎない」という視点で眺めることも必要なように思います。今、成功している人も、たまたま成功したに過ぎない。その人に成功の秘訣を聞いたところで、それはこれから先に成功する知恵であるかは分かりません*2

 そしてそれは同時に、「今、この環境では苦労しているけれども、違う環境ならばことの人も土からは行かされるかもしれない」という視点ももたらすことでしょう。冒頭書いた、ASD的な人が遠隔授業になると単位を取れたように、今まで不適応にあった人が、環境の変化だけで生き生きすることもあるのです(そしてその逆も)。そう考えると、今現在、マイノリティとされている人たちも、時代の変化でマジョリティになることも充分ありうる。それだけでなく、人類が種として生き残るためには、そういう人たちの能力が欠かせないこともあるのではないか……などと夢想することもあります。

 

 

 

 ……だれですか、「ニュータイプ」などと云った人は。

*1:ような気がする……。また調べたら正確なところを書く。

*2:これ、私の好きな事例研究を否定する考え方なのか?と思ったけど、それに留まらないものを見出そうとするのが事例研究だ、と考えることが必要なだけだな。