個性記述と法則定立

 表題の件で少し書きたくなったので、書く(正確には、あることのために書き仕事をしてるのだけれども、その中には入れにくいだろうなあ、と思ったのでここで書く)。

 

あたし男だったらよかったわ 力ずくで男の思うままに
ならずにすんだかもしれないだけ あたし男に生まれればよかったわ
 中島みゆき(1981)「ファイト!」

www.youtube.com(本人のがないので、満島さんので代用)

 

 Allport(1937/1981)に由来して、ある業界では有名な「法則定立と個性記述」という切り口がある。まあ、自然科学的な、「法則」を見出していこうとする科学のあり方と、定性的な(質的な)考えに基づき、数値化しにくい情報について、記述的方法を用いて理解を試みようとするあり方です。いわゆる「自然科学」に属するのが法則定立で、「人文科学/社会科学」が個性記述……というのはかなり雑な分け方ですが、まあ大体そんな感じ。

 

 んで、人文科学(社会科学)で、自然科学であろうとする学問(自然科学に対して複雑な感情complexがある学問)は、どうにかしてこの法則定立でいられないか、とか思うわけです。何か法則を見つけて、その法則を見出せば、「ボクたちも「科学」と名乗っていいよね?」と思うんでしょうな。知らんけど。

 

 でも、その学問内部でも、「いやいや、そんなふうに「法則定立」だけでは、「生きた人間の姿」は捉えられない。「個性記述」こそが人文/社会科学の王道だ」と考える向きも、やはり根強くあります。ま、こりゃ、どこまでいっても容易には混じり合えないことかとは思います。

 

 それで。

 

 ふと、先の中島みゆきの歌詞を思い浮かべた時に、この二つではどう考えるのかな?と。

 

 法則定立的な発想では、先の歌詞は、

 「力づくでは勝てないから、男に生まれた方がよい」

となるかと思うのです。「男に生まれる=いいこと」、これが、あの歌詞を単純に読んだ時に導き出せる結論。

 

 しかし、個性記述的な発想は、それのみに着目しないと思うんですよ。

 「ならずにすんだかもしれないだけ」

の、「だけ」と云うことばは、すごく重い。と、私は思う。

 「男で生まれればよかった」のは、この発話者は、「力ずくで男の思うままにならずにすんだかもしれない」「だけ」、「男に生まれればよかった」と思っているに過ぎない。だから、このことばは、「男に生まれればよかった」ということは、1%も意味していない。わずかに、0.000000......1%くらい、「力ずくで男の思うままにならずにすんだかもしれない」「だけ」という、その一点のみ、「男に生まれればよかった」のだ。裏返せば、その一点を除けば、「男に生まれればよかった」なんて、微塵も思っていない、ことになる。つまりそれほどに、男を憎んでいる、というのがこの言表の意味だろう。

 

 いわゆる「個性記述」的アプローチは、ここで勝負するのかと思う。

 

 「力ずくで男の思うままにならずにすんだかもしれない」「だけ」「男に生まれればよかった」のは、「力ずくで男の思うままに」されてしまった現実があることを言外に意味している。ことばにされないけれども、ことばにされないがゆえの重みを伝えている。「そのものをことばで直接指し示せないがゆえの迫力」がここにある。

 直接指したらどうなるか。「そんなこと、早く忘れてしまいなさい」、「起こってしまったことはもう仕方がないから」などと、「見ない方向」でのことばかけがなされるかもしれない。それは「法則」としては確かにそうなのかもしれない。早く忘れてしまって、現実に着地して、今できることをやっていこう……とするのは、ある種の「知恵」でもある。しかし、それで果たして本当にいいのだろうか、そのことにより、そこで受けた傷つきが、癒されることなく語られぬまま温存されて、何年も何十年も生々しく蠢き続けることになるのではないのだろうか。

 つまり、「語られたこと」は、「語れるようになったこと」なだけであって、その背景には幾万もの「語り得なかったことがら」がある。語る前の連想では息づいていても語るまでには至らなかったこともあるだろうし、そもそもその連想にすら入り得なかったこともあるだろう。「そう思うことすら禁じられていた」ことなんて、世の中に山ほどある(いわゆる「洗脳状態)など)。

 

 それに対し、必要なのが、なんなのか。実のところ、簡単には云えない。「語れるようになる」ことは、確かに大事かもしれない。でもそれは、時間がかかる。大きすぎるインパクトは、生々しすぎて語り得ないのだ(萩尾望都の『一度きりの大泉の話』のように)。もし、その時に少し表出できるとすれば、「力ずくで男の思うままにならずにすんだかもしれない」「だけ」「男に生まれればよかった」のように、否定で語る、裏から語る、暗示のみで語る、ことだけなのではないだろうか。「語られたことば」の背後には、あまたの「形を取らないその人の内側の思い」があることは、常に忘れてはならない。

 

 こころのことを考えたらば、やはり、法則定立だけではうまくいかない。「〜なだけこうあればよかった」という形でしか指し示せない、こころのなかのわだかまりもある。それを、そのままそのことばを、つまりそのことばをその背景も含めてまるごと受け取り、しかしなおかつそこでどのようなことが考えられるか、感じとれるかを深めていくのが個性記述というアプローチである。そうしたことでなければたどり着き得ないこころの真実があるし、それこそが、次に示すような過ちを犯さないためにも必要なのだと思う。

 


包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる
 中島みゆき(1978)「世情」