絶望を生きること

 我々はなんのために生きているのか、何故生きているのか。

 

 そうした問いは、歳を重ねるごとに薄まっていき、ただ漠然と日常を生きていけるようになる。そのような問いを若きもの特有の熱病だとラベルを貼り、それを見ぬようにして、日々の暮らしを生きる。しかし、その「熱病」のさなかを生きるものに、したり顔の説得など何も届くはずもない。今、熱がある。この苦しさは、如何にして緩和されるのか。オトナ(とラベルされるはず)の我々は、その問いにどう向き合えるのか。「待つしかない」のはそうだとしても、ではその「待つ」ために何が必要なのか、何ができるのか。「ただいることが大切だ」とのお題目を掲げてみても、その「ただいる」ことが如何に難しいか。ことばにすれば瞬時に終わるが、「ただいる」時間は永遠のように長く思える。

 

 生きることの虚しさを抱え、しかし生きる意味を求めざるを得ず、しかし生に希望を見出そうとするその願いそのものに罪悪感を感じるのだとしたら、近付くことが絶望であり遠ざかることも絶望になる。その絶望を抱える個人に、底の浅いなぐさめのコトバをかけたとしても瞬時に見抜かれてしまうであろう。ああ、あなたもこの苦痛を抱えることのできないオトナなのね。そんなことは百も承知なのに、でもそこから抜けられないワタシがいる、そんなことも分からないのね。そのような想いを、妄想かもしれないが思ってしまう。

 

 「待つ」とは、「待つ」と云ったことで失われてしまう営みのためにあることばではないか。「待つ」と表現した途端、「待つ」という営みが持つ一番大切な精神は失われてしまい、「何もしない」と容易に同義になる。過酷な生に翻弄される個人に、「ただ待ち、しかしともにいる」ことを成し遂げるためには、「待つ」にありながら「待つ」と認識しない、そんなことば以前の「ともにあること」まで降りていかねばならないのではないか。

 しかし、そんなことば以前の領域までたどり着くのは、ある意味個人を超えたしごとである。そしてまた、われわれはことばを用いて生きる人間存在であることも忘れてはならない。ことば以前に一度入り、しかしそこから戻ってくる必要がある。私はどうも、そこに入ってふたたびことばへ戻ってくるのがまだ少し苦手なようだ。

 

 

 映画『パレードへようこそ!』(原題"Pride"、2014年)の劇中挿入歌の"Bread and roses"を思い出す。映画の舞台は1984年のロンドン、サッチャー政権下でストライキを行う炭鉱労働者に、LGBTの団体が支援を申し出るお話である。炭鉱労働者を鼓舞するゲイの青年の長広舌のあと、ある女性が立ち上がって歌うのが件の"Bread and roses"だ。それに次のような一節がある。

 

 Our lives shall not be sweated / From birth until life closes / Hearts starve as well as bodies / Give us bread, but give us roses.

(試訳)この世に生を受けてから命を終えるまで、我々の人生が汗のかきずくめでいいはずがない。肉体が餓えているなら同じく魂だって餓えている、我々にパンを、しかし同時にバラを。

 

 額に汗する労働者ではなく、何かを求めて大声で叫んでいたわけではなくとも、沈黙を通して、あるいは生の苦しみとして叫ぶこともあろう。求めても仕方がないと言い聞かせながら、奥底では何かを求め、しかしそれに気付くと絶望が深くなるだけなので必死にフタをして。

 その想いに常人が近付くには、幾重もの守りを必要とするように思う。なぜなら、容易な繋がりが安心感をもたらすのであればそもそもその個人に絶望などないからだ。だから、なにがしかの守りが必要になる。そんなときに私が一つ使うのは、どうもユーモアであるようだ。もっともこれは、諸刃の剣であるのだが。

 

 

 最近、いろいろなところで、"Bread and roses"を連想することが増えた。Breadが与えられているのに、何を文句を云う権利があるのだ、そう言い聞かせている青年期の個人は少なくない。しかし、我々が人として生きるためには、rosesは不可欠なのだ。その原点は忘れてはならないと思う。そして、そのことに罪悪感を抱き続ける個人がいることも。