「あまり1」が気になる

 16÷5=3あまり1、という書き方は小学校の最初だけで、そのうちに、3.333333...もしくは3+1/3になるかな。まあともかく、そのお話(最初は16でなく10でやってたんだけど、3が二回出てきてややこしいので変更)。

 

 科学だの法則だのは、「3」を見つけることだろう。16を5で割ると、だいたい3となる。3と、1余ってるけど、「だいたい3」として差し支えない。その「3」を見つけるのが仕事。

 「16を5で割ると、どれくらいだ」「えーっと、3くらいです」「よし」、これが「正しい」世界である。ググったりヤフー知恵袋を見たりしたら書かれている回答は、だいたいこんなもん。「それは3でいいと思いますよ」「正確に云うと3.3333と割り切れませんが、まあ3として進めていいんじゃないでしょうか」、それが「多くに通用する知識」である。

 

 でもさあ……。どうしても、その「あまり1」が気になる人っているんですよ。私とか。

 1あまってるなあ、これどうするんだろう。16個入りのおまんじゅうを買ってきて5人の職場に分けるとなると、一人あたり3個配れば大丈夫、あれ、でも一個余っちゃった。これどうする? おまんじゅうを1/5にするとそれも配れるかな……なんてことは考えないけれども、「だいたい3」の世界と「あまり1」の世界は、けっこう違うように思う。

 私は効率を求めるとなるとガリガリと効率化していく人なので、「3でいいやん」と云ってしまう自分がいるのも知っている。でも、やっぱり「あまり1」はあるんだよね。その「あまり」のほうにこそ、なんだかとても大切なものが潜んでいる気がする。

 

 おそらくブレイクスルーは、その「あまり1」から起きるのだろう。「3」で満足している世界には、物事の意味づけを変えていく出来事は起こらない。3でよしとし、あるいは如何に3に近づけるかに血道を上げ。そのときには「あまり1」は邪魔者にしかならない。でも、その「あまり1が気になること」が、反転的に世界の意味を変えていくことになるのではないだろうか。

 

 世の中が世知辛くなると、「3」しか目に入らなくなる。でもさ、「あまり1」から見えてくる世界も、あると思うし、それがなかったら、生きる楽しさも生まれないんじゃないかなあ。