「そうだ、私にはことばがある」
ことばで伝わると云うことがとても不思議だなあ、と思うのですよ。
あ、「ことばじゃ何も伝わらない」というフレーズはだいっきらいなのです。「お前今何で云うた?」と聞き返したくなるから。「ことばで自分の云いたいことは伝わらないから、おれオリジナル言語を開発しました」ってとこまで行って言語体系まできっちりみっちり構築してくださるのなら話は別ですが(そういやゲーム「風のクロノア」大好きでした)、大体の場合は自分自身の言語化能力を棚に上げてのものが多いので。
それと同じく、音楽(や絵)をことばと対置させるのも、ちょっと違うと思う。音楽や絵はことばと違うチャンネルを使いやすい、と云うのはそうなんだろうけど、しかし音楽や絵でも、記号的なものは(その人たちの云う)「ことば」とそんなに変わらないだろうから。そしてまた、私たちは詩(や歌)という表現形式を持つのだから、それが音楽や絵とも同じくらいインパクトを与えるものだというのは分かっているはず。言語−非言語じゃなく、死んでいる表現と生きた表現がある、シンプルにその違いではないのかな。*1
「今日、家出たら犬に吠えられてさ」、このことばを聴き、私たちはなんとなく情景を思い浮かべる。そしてそれは、相手の「家」を知らなくても、吠えられた「犬」を知らなくても想像できる。これ、すごいことだと思いません?
厳密に、その犬は小型犬か大型犬か、犬種は何か、などなど考え出したらキリはない。すべてのことにこれをやり出すと、コミュニケーションは痙攣する。でも、そんなことしなくても私たちは会話をし、イメージのやりとりをしている。それは誤解に基づくものかもしれない。しかしその「誤解」こそが、豊かなコミュニケーションを産むという可能性もあるのではないだろうか。
「誤解」というのは言葉が悪いな。「想像可能性」と云ってもいい。先ほど使った「生きた」というのはそういうものだ。ああかもしれない、こうかもしれない。その多様性の中、ことばを一義的に定めず、行間の中に、余韻とともに、ことばをただよわせる。勿論それがただの「妄想」とならぬよう、相手とのやりとりの中でイメージを裏付けていくことは必要なのだけれども、その想像可能性が私たちの生命を豊かにしてくれるのではないのかな(「恋愛」なんて云うのは究極の「想像可能性」に開かれた行為だと云えるかもしれない)。
しかし、伝えようとしても伝わらないこともある。どれだけことばをつくしても、何らかの形で表現しようとしても、どうにも伝わらない、表現できない。「クオリア」なんてのもそういう感覚かもしれない。ことばで伝えようとするのは、そういうもどかしさとともにあると云ってもいい。
でも、そこを繋ぐのは「想像可能性」であると思う。ことばですべて表現できるわけがない(云っておくが、絵でも音楽でもすべて表現できるわけがない)。しかしそれを、受け取る人が想像することができる。そこから想いをふくらませることができる。だから、伝えようとしても伝わらないかもしれないが、伝わることもあるのだ。
「そうだ、私にはことばがある」。タイトルにしたこのフレーズは、鳥居『キリンの子』を読んで浮かんできた感想である。世間的に云う「過酷な目」*2にあいつづけ、育ってきた1人の女性が、自らの想いを表した短歌がここには集められている。腹をえぐられるような31文字もあり、また希望を感じる31文字もある。絶望に絶望を重ね、ことばにできぬ数々の想いを重ねた女性が、しかしその想いをことばにしている。その行間に涙が出そうになったことも数度ある。力のあることばたちがここにいる。
持つものが何もない、私には何も残されていない、そんな中ふと訪れた、「そうだ、私にはことばがある」。この転回の意味は大きい。ありとあらゆる過酷な目に遭い、絶望しか目の前にないと思えるような状況下、ふと訪れる反転。人間の持つ可能性とはなんとすごいものだろうか、と思わされる(あ、そんな転回が作者にあったかは私は知らない。私の想像です、念のため)。
私たちみな、さまよえるたましいを持つのだと思う。そのたましいは本質的に満たされぬものなのだろうけれども、身近な人とのつながりに癒され、またなにか超越的なものに触れることで時に浄化される。この短歌集は、そうしたなにかを持つものであった。
鳥居「キリンの子」KADOKAWA