「白い犬がいるよ」

 これに対して、「そうだね、白い犬だね」と素朴に返してもらうことの大切さ。

 

 ただあるbeingというのはそうだと思う。世界があり、それをそのまま受けとめ、そのまま受けとめた私をそのまま受けとめてもらう。この「そのまま」であるということの意味は、とてつもなく大きい。

 しかし、世の中にいるということには、なにかをなすことdoingがつきまとっており、「そのまま」ではいかないところがある。「どこをもって白と考えたのか」、「犬と判断した理由を述べよ」、果ては「白い犬を黒にするにはどうしたらいいか、考えなさい」という要求が突きつけられたりする。

 もちろん、これらの問いは大切なことである。学問とはそういうものだし、いろいろ理屈をつけて論理的に説明する能力は必要だ。私が白と見ても相手は白と見ないかもしれない、犬と猫の違いは何か、オオカミとはどう違うのか。そんな数多くのことを学んで私たちは大きくなっていく。オトナになり、社会生活を営めるようになるためには、その問いが必要になる。この問いをともにする人がいることで、人は成長していくのである。

 

 しかし、そうした問いかけには、「そのまま」が保障されていることが前提となる。個人がそのまま受けとめたことを、誰かにそのまま受けとめてもらう。その安心感に保障されて、そうした問いかけを考えていくことができる。ああかな、こうかな、どう考えられるかな。いろんな角度から考えて、確からしいことを探求していく営みは、ゆとりが存在することによって可能となる。もし、その安心感がないのに、ただ問いのみが突きつけられるとしたら。そしてその問いは、投げつけられるだけで、その問いを考える営みをともにしてもらえなかったとしたら。

 おそらくそれは、考えるゆとりがないのにただ問いのみを背負わされた状態であり、その時その問いは探求の営みではなくなる。「正解か、さもなくば死か」ほど切迫した状況下での問いとなる。そこに発見の喜びなどない。問いに答えねば死あるのみなのだ。生存の安心感はなく、綱渡りの恐怖しかない。そのような状況下で問いが与えられても、何の意味も持たないだろう。

 

  「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智

 

 ただ、あるということ。そのただあることを、うけとめてもらえるということ。

 寒いと感じ、そのことばを漏らす。漏らしたことばをそのまま受けとめ、照らし返し、自分の感覚が是認される。極めて素朴な、シンプルなことばのやりとりだが、私たちが生きるということの基盤は、そんなシンプルなやりとりによって構築されるのではないだろうか。感じたことを、そのまま受けとめ、そのまま返してもらう。この営みは、あまりにもシンプルすぎて、それはなにか目に見える重要行為として挙げられるような大層なものではない。ただあり、そのただあることが受けとめられ、是認される。たったそれだけのことである。しかし、そのたったそれだけのことが、あまりにも得がたいことだったりする。

 

 極めて素朴でシンプルな、同じことばを照らし返してもらえる安心感が、我々が生きる基盤のベースにある。私たちは、一人一人が個であり、その個であることは如何ともしがたく孤である。私が悲しい気持ちになっていてもその悲しさは私の中にしかなく、他の人がその悲しさを感じることはできない。しかし、その悲しさのわずかな片鱗をことばにし、そのことばにしたことを誰かが受け取り、その受け取った個人がその悲しさを推測することができる。そしてそのことを伝えることができる。その時、本来私にしか存在し得ない悲しさの感覚が、どこか分かち持たれたかのように思えることがある。私たちが個でありながら、ことばを介して人とともにあることを感じられることがある。そうした安心感が、生きていく上で欠かせない基盤となっているのではないか。

 その基盤の上で、「じゃあ、犬ってなんだろうね」という問いが発せられ、そこを考えていくことで世界が分節化され、ことばによっていろいろなことが分かるようになっていく。そして知識を獲得する。学問と呼ぶに足る知の体系のかけらを手に入れることができる。これらはあくまでもその基盤の上に立てられる立派な構築物であり、もしその基盤がなければ、基礎工事を怠った建造物となってしまうだろう。

 

 昨今、あらゆるところでエビデンスが求められ、目に見えることのみが重要であるとされる。行為にはアカウンタビリティが求められ、言語的説明が重視される。勿論それらは大切なことであり、ただの思い込みや慣習、声の大きさのみで物事が決まるよりはいいことだろう。しかし、そうしたエビデンス重視の姿勢は、何においても説明を求める世界と近くなる。

 「白い犬がいるよ」。それに対し、「証拠はなんだ」と問いかけるのは、大切なのかもしれないけれども、とても貧しい世界であるようにも思う。「そうだね、白い犬だね」。私がこう見えたという世界を、そのまましっかりと受けとめてもらい、是認してもらうこと。そこには何か数字で数えられるような何かはない。ただ、そうあるだけである。しかし、そのただそうあることをしっかりと認めてもらえることによって、我々が孤である絶望から救い出されるのではないだろうか。「そうだね、白い犬だね」。なんてことない、たったそれだけのことなんだけれども、そのそれだけのことが我々をこの世につなぎとめる。