ハラスメントと日本型社会(2)

 さっきからの続き。

 

librairie.hatenablog.com

人との「つながり」の感覚は、洋の東西を問わず必要とされるよね、というお話でした(うおー、初めて記事へのリンク貼った)。

 

 しかし、この「つながり」は容易に「しがらみ」へと転化する。しかも、それが「つながり」になるか「しがらみ」になるかは人によって(関係によって、と云ってもいいかもしれない)異なるというのがまた面倒なことである。

 たとえば地域での「つながり」は、それを好む人にとっては「生きがい」すら与えてくれるものだが、それが単に「しがらみ」にしか感じられず、面倒で仕方がないものにもなる。職場での呑み会には参加したくないが、ネットでの友人とのオフ会には参加したい人もいる。ある人にとっての「つながり」は別の人にとっての「しがらみ」になり、またある時は「つながり」であったことでも時間が経つと「しがらみ」になることも充分ある。こじれた恋愛とかな。

 

 今あるハラスメントの訴えが、「そんなふうに受け取られるとは思っていなかった」、「今までそうやってきたのに」などのことばで返されるというのは、彼らはほんとうにそれが「ハラスメントである」との自覚がなかったのであろう。それはいわば、彼らがそれを「つき合い」であると考え、相手の身内感覚に甘えていたからだ、と云えるのかもしれない。

  この、「ハラスメント」に「身内感覚」が混じっているのが如何にも日本なのではないかな、と思ったのですよ。私はあなたのことを身内だと考える。だからオレのお酒も飲めるだろう(アルハラ)、オレの云うこともきくだろう(パワハラ)、オレの性的な言葉も受け流せるだろう(セクハラ)。それは、身内であればある種の相互甘え関係内で処理される働きかけかもしれないが、身内ではない人にそれを行うと、ハラスメントとなる。この、「親しさを表す関係」において、「身内感覚」が入るということが極めて日本的なのではないだろうか。

 このことは逆に云うと、こうした関係は「身内」であれば(ある程度)許容されることでもある。ちょっと無理なことを云っても受け入れてもらうことでのよろこびがあるし、恋人同士であれば性的なことばかけも関係のちょっとしたスパイスとなる。まあこれが親子間で行われると難しいことも生じるが(しかしハラスメントの定義にあるように、「相手がイヤだと思えばハラスメント」なのですよ)。いずれにせよ、そうした相互依存的感覚を許容する関係というのは、(お互いにとって快であり、それが社会的に位置づけられているのならば)決して悪いことばかりではないと思うのです。

  例えば、「弟子」という考え方。職業の先達が初心者に何かを教えるという関係においてこの「弟子」制度があるが、これは単なる職業的教育関係に留まらず、全人的教育をも視野に入れた関係である。ここには擬似的親子関係も入り込む。内弟子制度はまさにそうしたもので、相撲部屋ならば師匠の妻を「おかみさん」と呼ぶ。自身の原家族から離れ、でもそこで擬似的な親子関係を体験し、親のように慕い・子のように育てる相互関係によって、被教授者の全人的成長を視野に入れて行われるのが弟子制度である。

 

 しかし、その制度があることに依存し、先達は「身内」と思っているけれども、それを受ける側は単なる「職業的関係」に過ぎないと思っているところに、ハラスメントが産まれるのではないだろうか。この、「身内感覚」と「職業的関係」とのズレこそが、最近話題となっているハラスメントと関係しているのではないだろうか。

 

 ってあたりで、次へ。