ハラスメントと日本型社会(3)

 「身内感覚」と「職業的関係」のズレがハラスメントを産んでいるのでは、と云うあたりで終えて、三つ目へ。長いな。ちなみに直前のはこれ。

 

librairie.hatenablog.com

 

 

 ちょっと前も相撲部屋のことが話題にのぼったけれども、弟子制度の中で暴行事件が時に起きる(おそらく「事件」化しないものはその何倍もあろう)。その意味で、弟子制度はハラスメントの温床であり、前近代的制度以外の何ものではない。しかし、我々が何か教え育つ(教えられ育てられる)関係において、「職業的関係」だけでいけるわけではない、というのがとても難しいところだろう。

 家族もそうだが、近代的な契約の関係だけですべて割り切れるものではない。日本では家族会議を開くようになったらその関係は危機的である、何故なら日本社会ではお互いに空気を読んで関係が持続されるのが常態であり、そのようにして言語的に確認せねばならない時点でその関係が危機だという証拠だ、という話をどこかで読んだが、このことの是非はさておくとしても、人が育つというプロセスにおいて、純粋に契約的関係だけでうまく行くわけではない。情緒や感情の成長は、言語的に明確になったものだけで育つのではなく、非言語面含めた全人的関与が必要になるからである。*1

 

 教育論については稿を改めることにしよう。ともかく、こうした相互依存的関係を前提としているのが日本型社会なのではないか、と思うのです(まあこれは私のオリジナルでもなく、土居健郎『甘えの構造』なんかで既に云われておりますね)。で、そうした日本型社会を当たり前のものとしている、相互依存的関係に安住している人たちにとって、「ハラスメント」と云われることはその共同体的心地よさを脅かすことになる。ただしかし、そうした「つながり」を心地よいものと感じられず*2、ただの「しがらみ」にしか感じられない個人にとっては、本当にそれは「ハラスメント」でしかない。そしてまあ、相互依存的関係は、どちらか片方が無理しているから成り立っていることが多いので、その無理が講じて「ハラスメント」の訴えになる*3

 しかし気をつけて考えねばならないのは、前近代に戻ることはあり得ない、ということです。ハラスメントの訴えには真摯に耳を傾けなければいけない。多くの人が見落としている何かがそこには隠されているから。しかし、相互依存的関係のよさというのもどこかにあり、それを全否定するというのもおかしな話だとは思うのです。片側が無理をしているのは論外だけれども、「相互」依存である関係は人にやすらぎを与えるものでもあるし、相手を甘えさせているとき、私たちのこころの深層では自分の一部も甘えているのだ。

 我々は共通のルールを持つ言語というものを基盤に社会生活を営んでいるので、人とのつながりを否定することはできない。しがらみに過ぎないものを強要するのはとんでもない話だが、ゆるやかな繋がりをも否定するというのはあまりにラディカルすぎるだろう(誰も否定してないけど)。おそらく、レディメイドの考えに人びとをあわせさせていた今までの時代を超えて、個々の感覚を尊重し、しかしお互いに共通のルールを設けるという、まあ当たり前の感覚を、改めて見直さねばならないのだろうな、と思う。弱者にやさしい社会は、みんなにやさしい社会になる。少し楽観的すぎるだろうか。

 

 ……しかし、「ハラスメント」が外来語であり続けるのって、やっぱり「甘え」の裏返しであるようにも思うな。「甘え」の社会には「ハラスメント」を表す語彙が存在しないんよ。たぶん。

*1:このことは、契約的関係が無用であるといっているのではない。近代社会であるのだから「家族」にすべて押しつけるわけには行かないのは当然で、それをあらゆる方面でサポートする社会資源はとても大切である。しかし、そうした契約的関係に基づく社会資源ですら、人を「育てる」ことに関しては、機械的契約関係だけで行われるとむしろ危険なことになる、ということがいいたいのだ。

*2:これ、どこか発達障害的性質と近いのではないかとの感触もあるのだが、これこそまた別の機会に。

*3:あ、時々、好訴的背景を持つハラスメントもあるんですよね……。本当は人との関係を結びたい個人が、ボールの投げ方が分からず「ハラスメントだ」と訴える、と云う……。これはこれで根深い別の問題としてあるんですが。