「考察せよ」とはどういう事態を指しているのか

 「考察せよ」と指定した文章に、「感想」レベルのものがどしどし寄せられるので、何が違うかを自分でも明確にするために、言語化に臨んでみる。

 

架空の具体例(例示)

 とりあえず、例を挙げる。

 「魚を食べようとしたときに、どのような調理法を使うか。私はそれを聴いて、「刺身一択」だと思っていました。ところが、他の人の意見を聞いてみると、「やっぱ焼き魚でしょう」、「寿司こそ至高」、「味の浸みた煮魚も捨てがたい」、「白ワインと合わせるためにムニエルかな」、「ヅケにして丼で一気にみたい」などいろいろな意見があることが分かりました。自分の思い込みに気付かされました。」

 これを「考察」と云って出してくる人が少なくない。でもこれ、「感想」。

 

「材料」の列挙は考察ではない

 何かを考えるに当たっては、素材が必要となる。考える材料をまず提示する。それは必要。間違いない。何もなくいきなり考え始めることは難しい。少なくとも、考えを進めるにあたって、どのようなテーマで、何を用いるのかを示すことは必要になる。

 上の文章で言うとどうか。まず「魚の食べ方」というテーマにおいて、自身の考えである「刺身一択」があるが、他の人のいろいろな意見があるよ、というのが提示されている。

 これ、ただの「材料」ですよ。「考察」のレベルに達してないですよ。

 先ほども料理を題材にしているのでちょっと混同しそうだけど、料理で云うと、「お好み焼き 用意するもの:卵1個 小麦粉200g だし汁200cc キャベツ1/4個 長いも約10cm 豚バラ二枚」とか、そのレベル(あ、お好み焼きの分量はめっちゃ適当なので気にしないこと)。

 料理の比喩ついでに上の文章を料理に置き換えるとこうなる。

「今日はお好み焼きについて取り上げる。お好み焼きの材料は、以下の通りである。卵1個(略)豚バラ二枚、お好み焼きソースに好みでマヨネーズ。これが標準的な材料だ。作って食べてみるとうまい。お好み焼きは奥が深い。」

 ……あの……作り方、どこにも書いてないんですけど……。

 

「考察する」とは「料理の手順を示す」こと

 つまり、「考察せよ」とは、「きちっと料理せよ」ということなのだよ、ワトソンくん。 

 考えの元となる「材料」を提示する。その「材料」を煮るなり焼くなり自分なりの手立てで調理し、完成した一皿として読者に提示する。そして、その調理方法を、読んでいる人が分かるように書き示していくのが、「考察」になるのです。そして大事なのは、読み手がその手順を追体験する中で、「これは確かにうまそうだ、作ってみようかな」と思わせることです。

 ……と書いたけど、違うわ。「考察」の目的は、「完成した一皿」にはない(無論、あるにこしたことはない)。「完成した一皿」を作ろうと、その素材をもとにいろいろ試してみることです。小さく切ったり大きく切ったり、煮込んだり焼いてみたり。それぞれ味見しながら、「こうしたらうまくなるんじゃないか」、あるいは「これはやっぱりまずいよな」など、試行錯誤の過程をしっかりと示すことです。そうすることで、それを読む人がその人の試行錯誤を追体験し、「なるほど、この素材はこういう特徴を持っているのね」などと理解が深まる。それが「考察」の持つ特徴です。

 まあもちろん、世の中のレポートには「レシピを書け」というのもあり、先ほどの「お好み焼き」なら、素材だけでなく作り方を書くことで完成するものもある。「○○についてまとめよ」という類のレポートならそうですね。でも、「考察せよ」という場合には、レシピ書いただけではダメなのですよ。

 材料を取り出し、調理する過程でいろいろ考える。キュウリをサラダに使うとき、丸のままはさすがにないとして、スティック状に切るのか、細長く切るのか、あるいは小さなダイス状にすることもある(最近これ好き)。その切り方は、目指すものによって異なってくるはずだ。棒々鶏なんかは、細長く切った(中国で云う「絲」ですな)キュウリが似合いますな。さっきの小さなダイスキュウリは、同じく小さな切ったパプリカとソース的に使うことがあります。何に合わせるか、それによって切り方を変える。何を狙ってそう切ったか。そしてその結果、何が見えてきたか。そこをしっかりと言語でたどっていくのが「考察」です。

 「ここにキュウリがある。今日は安いステーキ肉を買ってきたので、そのソースにしたいと思う。ステーキならワインを用いてソースにすることもあるが、夏なのでさっぱりさせたいからだ。そこでキュウリを小さなサイの目状に切り、同じサイズに切ったパプリカやトマトと合わせ、塩胡椒とオリーブオイルで和えて、ステーキを野菜ソースで食べてみることにした。/なかなかにさっぱりしている。肉の脂がキュウリでマイルドに食べられる。何より野菜も取れるので健康にいい(気がする)。ただ、肉質がイマイチよくなかったのが今日の反省点だ。」

 これで「考察」と云うには足りないところがたくさんあるけれども、「文章でプロセスを追える」のはとても大切なことである。

 

思考のプロセスを追えるように文章で提示する

 極端な話、「結論」はどうでもいい。いやさすがに極論か。結論は大切である。でも、結論に到るまで、どのようなことを考えたのか。どのような思考の流れでその結論が導き出されたのか。そちらを示すほうが大切である。

 お好み焼きがうまいのは当たり前だ。自分で食べてうまいなら、それを文章で人に伝える必要はない。勝手に飯でも喰っておりゃあいい。求めているのは、「それを人に伝えること」だ。だから、「材料列挙して、感想書いて」ってのはあまり意味がない。ちゃんと、それを読んだ人が、その時の何かをある程度追えるように提示する。それこそがことばを使う意味だと思うんだけれども、どうだろうなあ。

 

ことばにすること

 私たち、自分が感じていることをことばでそこまでしっかり追えているわけではないと思うんですよ。ぼんやりと夢想し、ことばも用いつつ図形的にも思い浮かべつつ。「感覚」とはぼんやりしたものです。それをことばにすることで、自分が感じているところのものを、自分でもつかめるようになると思うのです。

 例えば世界は今目の前にあります。この文字を読んでいる人は、今目の前にディスプレイやスマホの画面があるのでしょう。ちょっと目を上げると、自分の部屋、電車の中、あるいは木々が見えるかもしれません。でも、私たちはそれを見ているようで見ていない。

 デッサンとかもそうだしカメラのファインダーもそうだと思うんだけど、何かそれを切り取ろうと思ってじっくり見ると、今まで見えていたはずのものが少し様相を変えると思う。色、形、濃淡、奥行き。それらの微細な感じがより見えてくる。あるはずのものを私たちはそこまで意識して生きていない。でも、見ようとすると、見えてくる。

 それと同じことだと思う。デッサンの場合は、見えてきたものを描こうとする行為だけれども、それをことばで描写しようとすることもありえる。お昼ご飯、おそばを食べたいときの感じとカツ丼を食べたいときの感じは明らかに違う。でもその感覚、私たちの中で明文化できない。「曰く言い難い感覚」でしかない。それを、少しでもことばですくい上げようとする試みは可能だし、そのことでその微細な感覚が他の人にも(少しでも)共有可能なものとなる。私が「考察」ということばで意味しているのは、自分の中の感覚を立ち止まって眺めてみて、そこをできる限りことばにしてほしい、と云うことなんだろうな。決まったものを写すのではなく、未だ分からぬ何かをことばであたりを取って少しでも分かち合えるものにする。それって、レポートを書く人にも面白いことだと思うんだけれども、どうだろうなあ。

 …………つーか、何故オレはすぐ「料理」を喩えで出すのか*1

*1: これに対し、「料理が好きだからだと思います」で終わるならば、ただの「感想」で、料理と文章表現の関係に何かしらつながりを見出そうとあれやこれや考えていくのが「考察」となります。