「自分を愛して何が悪い」の何が悪いのか

 「自分の国を愛してどこが悪い!」ということばがときどき出てくるようになったので、ちょっとそのことについて。これ、おそらく、「自分を愛して何が悪い!」と云い換えられるので、ここではこのことばをもとに考えていきたいと思う。以下、「自分を」を「自分の国を」と読み替えていただいてなんの問題もないけど、まあその辺は読む人に任せる。

 タイトルに「何が悪い」の何が悪いのか、と書いたけれども、結論から云うと、悪いというわけではないが、その発言自体は未熟な自己愛の露呈なのだろう、ということだ。そしてある種の人たちは、その未熟な自己愛こそを偏愛しておられる、時にはそれにしがみついておられる。無論私たちは誰しも未熟なこころを抱えてるんだけれども、その未熟さを躊躇いもなく肯定されたときに……いや違うな、その未熟さを肯定せよと声高に求められたときに、私は少なからず戸惑いを憶える。そのことを以下で書いていく。

 

コフート心理学における「自己愛」

 いきなり大きく出ましたな。これはもう、難しい話なので斜め読みしてもらっていいとして、要点だけ書いておくと(そして実は全然要点じゃないけれども)、大学院の先輩がこれを学んで云ったことば、「未熟なオタクが一般人へと成長するんではなく、未熟なオタクが成熟したオタクになるんだよ」というパラフレーズだけ頭に置いておけばいいと思う。

 自己愛とは、病的なもので克服すべきものだ、となっていたフロイト以降の考えを変えたのは、ハインツ・コフートという自己心理学者である。自己愛(ナルシシズム)は病的なものだとされていたのだけれども、コフートはそこを、「未熟な自己愛が成熟した自己愛へと成長する」と変えた。つまり、病的な自己愛と成熟した対象愛という異なる二区分ではなく、病的な自己愛が成熟した自己愛へと進化していくという連続的見方を提唱したのです。

 自己愛というのは病的に働くこともあるけれども、健康な成人の中にも存在しており、自己を支える機能も持つ。だから、自己愛が他者との関係の中で育っていき、成熟な自己愛へと進化することが大切である、というのがコフートの説である。自己愛は悪いもの・病的なものではなく、健康な成人が健全な生活を営む上で有用なものでもあるという主張。うん。ややっこしいですね。

 そうした自己愛を満たしてくれる対象を自己対象と呼んだ、などのお勉強をしてもいいのですがまあそれは世の中のブログに任せた(わたしもコフート斜め読みなので自信がない)。要するに、「自己愛って悪いもんばっかりじゃなくって、健康で創造的な生活の中にも発揮されてるもんじゃないですか?」ってのがコフートの主張で、そこを、病的な自己愛と健康な自己愛という連続体で捉えたのがコフート、です。

 

 

満たされぬ感覚とそれへの向き合い方

 私たちはみな、未熟なこころを抱えている。どんなにすぐれた親であっても子育てにおいて失敗し、子どもに傷を与える。その傷はひそやかに残り、思春期や青年期における親密な関係(あるいは芸術作品)などを通して、幾分は癒される。勿論、抱え続けていくこともある。

 誰しも抱える未熟なこころは、何かを進める上での起爆剤ともなる。両親からの満たされなかった愛情が、思春期青年期での恋人関係へと求められることはよくあることだし、創造性の根本に欠落がある例はそれこそ枚挙に暇がない。満たされぬ感覚、欠乏への意識が何か新たなものを生み出していくことは事実であり、その意味で、我々は傷つきがあるからこそ生きていけるのだ、とも云えるだろう*1

 

 さてここで、「自分を愛して何が悪い」に戻る。

 これはどういうことばなのだろうか。似たようなことばと比べてみよう。

 「自分を愛することは大事なことだ」。これだとどうだ。私には違和感がない。「何が悪い」に感じる居心地の悪さはここにはない。もう少し手を加えるなら、私は「自分を愛することも大事なことだよね」くらいにするけれども。「愛することは」と限定してしまうことに、どこかさみしさを感じるからだ。何かを見ないようにする、そんな気持ちがあるように思う。「ことも」にすると、なにかに添える感じが生まれる。それは「他者を愛することだけでなく」に添えられているんだけれども、言外には、そのことばをかける相手のこころにも添えようとする意識があるような気がする。だから「ことも」として、もう一つだめ押しで「よね」で終わることでさらにその「添え感」を補強している。のだと思う。

 「自分を愛することも大事なことだよね」ということばは、(あまり)押しつけ感はないだろう。素朴なつぶやきに類することばだ。じゃあ、そこから「自分を愛して何が悪い」を見てみればいい。

 「何が悪い」には、「自分を愛することが悪いことだ」という前提が隠されており、それに対するカウンターとして、「何が悪い」が投げつけられると考えられる。つまりこれは、「自分を愛することが悪いことだ」と決めつけてくる誰か第三者に対し、「何が悪い」と居直っているのだと考えられる。

 ちょっと話は変わるが、昔読んでいたオタク擁護本(?)の帯に、「オタクは悪くない!」と書かれていたのを思い出す。「悪くないって、悪いのが前提じゃないと出てこないよね」とその時思ったのだが、まあしかし、擁護というのは往々にして「悪くない!」という主張だからまあそれはそれでいいのかな。しかしこれも「オタクで何が悪い」となると、ちょっと相手への巻き込み感が出てくるだろう。

 何事にも悪いことは存在しており、100%正しいことなんてそうあるものではない。先に述べた、どんな人にも未熟な部分が存在しているのと同じく、なんにおいても悪い部分はある。しかしそれがどのように悪いのかを冷静に見つめ、上手にいなしながらふるまうことで人はオトナになっていくのだが、「何が悪い」にはそうした冷静に振る舞う視線はなく、自らの未熟さを露悪的に見せつけることで、他者を巻き込む形でその幼さを肯定させようとしているのだろう。

 

巻き込みとしての(あるいは一人相撲としての)「何が悪い」

 「何が悪い」という問いかけには否応なく他者を必要としており、相手の価値観を問うているかのような言説である。 しかし、その「相手」はほんとうに存在しているのだろうか。なんだか少し奇妙なんだけれども、「自分を愛して何が悪い」に想定されている「自分を愛するのは悪いことだ」という第三者は、存在していないようにも思う。存在していないというか、そのことばを発した当人だけに住んでいるのではないか。

 時折、次のような対象操作をする人がいる。「まわりの人みんな信じられない」と云って嘆く人がいたとする。その人は嘆き続け、まわりの人を(否応なく)世話役にする。世話役にされた人は、当人の「誰も信じられない、最初はやさしい顔をしてもいつか裏切る」という台詞を受けて、「そんなことないよ」と手を代え品を代えなだめ続けようとする。だけれども、人間なのでどこかで限界が来る。「ごめん……もうあなたの面倒は見られない」、あるいはあるときに思わず怒ってしまうとか。そして嘆く人、「ほらやっぱり、あなたも裏切ったのね」。

 私はこれを「石橋を叩いて壊す」と表現しているのだけど、こういう人は時々いる。この人の中の「まわりの人はいつか裏切る」という信念が強固すぎて、まわりの人がどうにもこうにも裏切らざるを得ないようなメッセージを出し続けてしまう。そして結局当人の思い通り、裏切り者ばかりの世界ができあがる。

 これとは種類が違うが、「何が悪い」にも、何か相手を支配するようなメッセージが潜んでいるのではないだろうか。そもそも、「自分を愛することは悪いことだ」というメッセージをまわりの人が投げかけているわけではない。にもかかわらず、当人はそれを仮想敵として設定し、それへの攻撃をぶつけ続ける。仮想敵の役割を(いつの間にか)取らされた相手は、それに見合ったように振る舞ってしまう。そして当人の、「ほらやっぱりお前はそう思っているじゃないか」という結論につながる。

 となると、「自分を愛することは悪いことだ」という想定は、「何が悪い」と居直る当人の中に存在していると考えてもいいのではないか。つまり彼らは、自らのこころのどこかに、自分を愛することが悪いとの懸念があり、その懸念を担った仮想敵を作りそれを攻撃することでその懸念を払拭しようとしているのではないか。

 「何が悪い」の問いかけには、その問いを発する彼らの奥底で、「悪いことだ」との疑念が彼らにあるとしたら、「青い鳥は自分の家にあったんだ!」の逆バージョンだ。それはつまり、ただの一人相撲を仕掛けていることになる。自分の中にその想いがあるという事実は本人にとっては恐ろしいことで、その恐ろしいことを避けるために彼らは仮想敵を作り、その仮想敵になってくれそうな人を探し、「ほらやっぱり、オレの云ったとおりだろう?」という結論を心待ちにしている。

 これの一番不幸なのは、そうやって攻撃している他者が、自分のこころの一部でもあると云うことだ。物理的に考えたら一番分かりよい。自分の身体の一部を切り離し、その切り離した一部を攻撃したところで、自分の身体の一部が失われたことには何の変わりもない。これを続けると、どんどん自らの一部は失われ、ほんとうなら栄養を与えてくれる交流からも遠ざかっていくことになる。純然たる何かを求めるあまり、住みにくくなるのは「水清ければ魚棲まず」などとも同様だろう。

 

そこにある(かもしれない)かなしさ

 でも……。これは私の甘さなだけかも知れないけれども、哀しさを感じるんですよね。「自分を愛して何が悪い」に。

 方向があさってな訳ですよ。今まで見てきたように(それが正しいなら、だけれども)。自分の中にある「自分を愛するのが悪いことだ」という思い込み(洗脳)、それに打ち勝つために勝手に仮想敵をしつらえ、そのフックになりそうな人にケンカをふっかけ、ふっかけられた人は何が何だか分からないからそのことばを却下し、本人の思い込みがますます強固になる。ほんとうにただの一人相撲。

 ドンキホーテの哀しさってそこじゃないんですかね。
 

 先にもちょろっと書いたように、私たちの未熟さは常につきまとうものであり、その欠落を抱えて生きるものでもあると思う。そもそも「未熟」ということばには、それがいけないものだという価値判断が若干入っており、そう見ること自体、なにか私の中に潜む成長へのベクトルが露見しているのかもしれない。

 でもやっぱり、私たちにとって、「オトナになること」は大切なんだと思う。そのオトナになったこともいずれ失われていき、不如意なことばかりが増えていくのだとしても、やっぱり、少しでもマシな方に変わっていきたいと思う。

 一方思うのは、「オトナになることを目指す」ことのつらさだ。だから、無理して目指す必要はない。でも、当たり前だけれども私たちは毎年一歳ずつ年を取っていくし、そのリアリティは引き受けなければいけないのだと思う。

 この辺、すごく自分でも表現しがたい。成長をしゃかりきに目指すのは違う。でも、成長を否定するのも違う。それは「何が悪い」的感覚だ。無理矢理背伸びする必要はないし、かといって時間を否定するのも違う。シンプルに云うと「あるべきやうは」なんだけども、でもその「あるべきやう」が何かってのは、実はとっても難しい。

 

 ただ自分があって、そのあることがありうる形を最大限にあるようにしていく。それが肩肘張ったものではなく、矮小化したものでもなく、ただあるということ。そしてそれをそのまま愛すると云うこと。極めて単純な原理なんだと思う。

 タイトルに戻ると、自分を愛することは何も悪くないしとても大切なことなんだけれども、「何が悪い」と云わねばならないことが悪い、わけではないけれどもそう云わざるを得ない哀しさはあるだろうし、ほどほどに自分を愛していられる力が育っていくと、そう云わなくてもなんとかなるのだろうなあ、と思うのです。「発達障害は治りますか?」との問いに「その治りますかという考え方は治りますか?」というトリッキーな回答を与えたのは神田橋條治だが、なんか、そんな気がする。

*1:あー、この辺の話もいつかちょっと考えてみたいなあ。