絶望を抜けて生まれる希望〜『愛し愛されて生きるのさ』を題材に〜
いつだって可笑しいほど誰もが愛し愛されて生きるのさ
それだけがただ僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく
とりあえず今日はこれ。
この歌詞の深みはどこにあるか
この歌詞のキーワード、見過ごしちゃう(かもしれない)けど忘れちゃならないことばたちだと思うのはここ。" "(ダブルクォーテーション)で区切りました。
いつだって"可笑しいほど"誰もが愛し愛されて生きるのさ
それ"だけ"が"ただ"僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく
まあ、こういうときはこいつらを抜いて考えてみましょう。ちとリズムの悪さがあるので最低限は改変。
いつだって誰もが愛し愛されて生きるのさ
そのことが僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく
私は、小沢健二の歌詞にどうしようもない絶望と孤絶感、から抜け出た希望を感じてしまうんだけれども、改変した歌詞にはそれがない。ですよね。ですよね、たぶん。
んで。
こういうと若干選民思想みたいでどうかとは思うんだけれども、小沢くん*1がポップミュージックとして人気を博したのは、この「改変したラインの歌詞」にあったのだと思う。多くの人は(少なくともサラッと耳にする人たちにとっては)たぶんそこしか見てない(鬱屈したサブカルにありがちな感情)。ちょっと云いすぎか。まあでも、主に受け取っているのは" "内を省略した歌詞にあるのかと思う。でも、ほんとうに大事なのはそこじゃなくって最初の" "にあると思うのです(鬱屈したサブカルにありがちな感情2)。
愛への賛歌、その裏にある絶望
小沢健二 - 強い気持ち・強い愛 Official 魔法的字幕 - YouTube
強い気持ち 強い愛 僕らをギュッとつなぐ
まあ、これなんかもすげぇポジティヴな歌詞だし、ここだけを聴くなら青年期の私はケッと吐き捨てていたと思う。いや、青年期に聴いてたんだけども。
これ、ほんと脳天気でバカみたいな歌詞で、なんかそこだけ拾われて(と思うんだが)「90年代ポップミュージック代表」って感じで取り上げられて*2、お気楽パーリーピーポー的に受けとめられるんだけども、よくよく聴いてほしいのは、そこに続く、
幾つの悲しみも残らず捧げあう
であって。
「強い愛」とか云ってるすぐ裏に、「幾つの悲しみ」なんてことばをサラッと紛れさせちゃうのが小沢くんな訳です。愛を謳うのに通例悲しみは持ってこない。愛と悲しみは対極とされてもおかしくない。でも小沢くんは持ってくる。なんでやのん。
今のこの気持ちほんとだよね?
これも。確認しなくてもいい。でも確認しなくちゃたまらない。
そして後半。
長い階段をのぼり 生きる日々が続く
大きく深い川 君と僕は渡る
涙がこぼれては ずっと頬を伝う
なんで泣くねん、お前。
…………強い気持ち、強い愛で結ばれた二人が生きる。でも相手に、「この気持ち、ホントだよね?」と確認しなくちゃならない。生きる日々が続き、川を君と渡る、その川は大きいだけでなく、深い、はまったら登ってこれないかもしれない川だ。それを君と越えて渡り、涙がこぼれて、ずっと、頬を伝う。
ここで涙を流すのは、あなたと生きられる幸せに?
…………いや。
そうなんだけど、そうじゃない。
この、「あなたと生きられる幸せ」は、「あなたと一緒でハッピー」なんてもんじゃない。そんなイージーなポジティブシンキングじゃない。ここにあるのは、苦しみを、絶望を、死骸を背中に背負ったまま生きるなかで生まれる幸せだ。
そんな目で見てみると、「長い階段を上り」も、死骸を背負ったままの苦しい道のりに思えてくる。悲しみを湛えた「大きく深い川」に見えてくる。それを背負ったまま、でも、にもかかわらず、あなたとそこを越えていける「幸せ」に、僕は思わず「涙」がこぼれる。そしてそれがこぼれたままになるのをとめることをできない。悲しい、悲しい、悲しいからこそ、生きる喜びが生まれてくる。その悲しいがゆえの喜びの涙を、とめることができない。
と、云う歌詞ではないのかな。
…………まあ、お前の思い込みやろ、と云われたらそれまでやけど*3。
可笑しいほど愛し愛されて生きる
再掲。
いつだって"可笑しいほど"誰もが愛し愛されて生きるのさ
それ"だけ"が"ただ"僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく
愛し愛されて生きることを「可笑しいほど」と表現する。
それ「だけ」が「ただ」未来の世界に連れてく、と書く。
愛し愛されて生きる、そういう基本のことが、ベーシックな、当たり前のことが。
「可笑しい」んだよ。笑えてしまう(可笑しい)、のですよ。
哲学的な問いに囚われ、如何にしていくべきか、どのようにして生きるのが倫理的なのか、相手を愛するとはどういうことなのか、そんなことをひたすら自問自答し続けた個人が、「愛し愛される」、つまり愛とは、モノローグの世界にあるのではなくダイアローグのなか生まれる*4という、ごく当たり前の事実に逢着することで、思わず笑いがこぼれる。
だから、「可笑しいほど」愛し愛されて生きる、そしてそれは誰もがあてはまることなのだ。
「悩める」のは、モノローグの牢獄に囚われていた個人で、モノローグの世界から未来の世界に連れ出してくれるのは、僕らが「愛し愛されて生きる」という対話関係の世界で生きること「だけ」しかないんだ。
その気づきが、笑っちゃう(おかしいほどの)脱力と未来への「抜け」感とともに語られているのがこの歌の歌詞なのだろう。
むすび
今見たこの感覚は、先に例示した
いつだって誰もが愛し愛されて生きるのさ
そのことが僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく
これとは如何ともしがたい断絶がある。ここには絶望もなく断絶もなく気付きもない。ただハッピーで幸せでポリアンナ的多幸感しかない。あなたと一緒にいるのが嬉しい、ただそれだけだ。
でも、小沢くんの歌詞はそうは云ってない。
断絶があり、絶望があり、悲しみがある。でも、それを乗り越えて、乗り越えがたきものを乗り越え、その上で、「やっぱりあなたと生きる、その相互性のなか生きるのがこの世で生きることなんだよね」と涙を流しながら語り合う。
その姿が、
いつだって"可笑しいほど"誰もが愛し愛されて生きるのさ
それ"だけ"が"ただ"僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく
ここにある、と私は思うのです。
ここで、『バナナブレッドのプディング』のラストシーンを引用しながらまとめるのもありだなあ、とちょろっと思ったんですが、それはまあ、大島弓子だけを取り上げる機会を待つことにしましょう。語れるかな、大島弓子。ちょっと頑張ってみます。
…………ちょっとポエムしすぎたかなあ。改行の量を多くしたのは、たぶんポエムだからだろうなあ。