ちゃんとことばを受けとめること〜『キリンの子』の一首を題材に〜

慰めに「勉強など」と人は言う その勉強がしたかったのです

 

 鳥居さんの『キリンの子』については以前もすこーしだけ触れたのですが(下記リンク)、上にある有名な一首を使って「話を聴くこと」・「相手のことばを受けとめること」について説明ができるなあと思ったので(と云うかそれを使って説明したので)、それをちょっと残しておく。

 

librairie.hatenablog.com

 

詩の例示とそれについて少し解説

 本題は「相手のことばを受けとめること」なので詩の解釈については立ち入る必要はないんだけども、この詩の含むところを分かってないとどうにも話が始まらないので、少しだけ解説。

 インパクトの強いことばなので、あちこちで取りあげられている(例えば以下とか)。知ってる人も多いだろう。

「施設の新聞で字を覚えた少女」が絞り出す歌 | 逆境からの人々 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

とりあえず、その一首を再掲。

慰めに「勉強など」と人は言う その勉強がしたかったのです  

 

 どういうシチュエーションかは想像できるだろう。

 「私、勉強がしたいんです」と云ったときに寄せられる、「勉強などしてもなんの得にもならないよ。勉強なんて意味ないよ」の(慰めの)声。そこで感じられる断然感。その断絶感を、「その勉強」の「その」が的確に表現している。

 

 発言者は、おそらく大した意図もなく、「勉強など」と云ったのだろう。この「など」も大きな意味をこの詩ではもっている*1

 ここでの「など」は、「そんな程度のもの」という意味をこの文脈ではもっている。日常語では「なんて」と表現されることも多いだろう。勉強など、勉強なんて。「そんなもの、たいして意味をもたないよ」。しかしそのことばが「慰め」であると分かりつつ、それが同時に「断絶」になっていることを彼女は見抜く。

 あなたが簡単に云う「勉強など」。私は「その「勉強など」」すら手に入らない人生を歩んできたんですよ、と。

 

 大学なんかで*2、ときどき聴くことばがある。

「高い学費払ってるんだから、バイトなんかしないで、勉強に集中した方が得だよ。授業料でいくら払ってると思ってるの?」

 まあすべてをコストで考えるのもどうかとしか思えないんだけど、その「バイトなんか」をしないと生きていけない人生を歩んでいる人にとっては、「バイトなんか」の一言はとても重く響くことは知っておいた方がいいように思う。世の中、いろんな家庭があるから。

 ま、ともかく、この詩はそういう詩だ。

 

話を聴くこと

 A「勉強したいんです」

 B「勉強などしても意味ないよ」

 

 まあ、よくあるやりとりです。日常会話、これに類することはいっぱいあります。これが悪いわけではない。でも、こう返すことで、上記のようなクリティカルな断絶感を呼び起こすことは想像しておきたい。


 このBの発言は、実は相手の発言を封じているのだ。

 「勉強なんてしてもなんの役にもたたなかったよ」は、Bの考えとしてあるだろう。それはそれで一つの考えだ。でも、それを発言することで、Aが続けて話すターンを取っているということを認識する必要がある。つまり、この一言は、Aの話を「聞く」時間からBの考えを「聞かせる」時間に変えているのだ。

 重ねて云うが、日常会話ではそれは「普通のこと」。よくあることです。日常会話は、お互いの発話が重なり合って進んでいくし、一方的な聞き役を作ることがいいわけではない。むしろ害のほうが多い*3。お互いが云いたいことをちゃんと話せるのが、いい日常会話です。一方的な聴き役を続けると(それが合っている人ももちろんいるけれども)、負担が大きい。

 でも、このBの発言が、先に見たように断絶感を呼び起こすものであれば、たぶんAさんはそれ以上は話してくれないと思う。「この人にこれ以上話しても意味ない」と思うから。そしてニッコリとほほえんで、時には「そうなんですね」とAさんがBさんの聴き役をやることもあるだろう。「やっぱりこの人も分かってくれない人だった」とこころの底に絶望を重ねて。

ちゃんと受けとめるならどういう返し方があるか

 じゃあ、「勉強したいんです」をちゃんと受けとめようと思ったら、どういうのがあるか。

 

 ある意味簡単。

 「そうなのね、勉強したいって気持ちがあるのね」と、まずはワンクッション受けとめるのでよい。こればっかりやると芸がないけど、まずは相手のことばをちゃんと受けとめたよ、として、そのままAの話すターンとして返してあげる。自分の考えは別に云わなくてもいい。もし、Aさんに話したい気持ちがあるのならば、なおさらだ。

 この辺は、鷲田清一が『「聴く」ことの力』なんかで書いていることでもありますね。

 聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場を劈く(ひらく)ということであろう。

  こちらの意見を入れず、ただ相手のことばを受けとめる。それだけでいい。受けとめて、そのまま相手の話すターンとして返す。そうすると、自分のことばで次を続けられる。それでいいのです。

 

どうして「勉強などしても意味ないよ」と云ってしまうのか

 今度は逆に、Bさんのように「勉強しても意味ないよ」と云ってしまうのはどうしてだろうか、ちょっと考えてみたい。当然いろんな場合があるだろうけど。

 

 一つに、「相手の話の重みを持ちこたえられない」というのがあるだろう。

 「意味ないよ」というのは、先に見たように、相手の云うことにフタをし、自分のターンとする発言である。相手の話を聴くのではなく、自分の話をしている。自分の話をするのはなぜか。

 まあ、単純に「オレの歌を聴け〜!」的なものもあるだろうけど、相手の話をちゃんと聴こうとしている人からも出てくるのだとしたら、「あなたの話を聴くのがつらい」のもあるのだと思う。この話を聴くとこの話を聞くと自分が潰れてしまう、壊れてしまう、しんどくなる。逃げ出したくなってしまう。

 その時、その場から逃げる代わりに、相手の話から(少し)逃げて、「勉強など」と軽く見積もる発言をするのかもしれない。相手が大変な人生を歩んできたんだということを痛感すればするほど、その重みを(無意識的に)回避したくて、このように発言するという場合もあるだろう。

 相手の話を真剣に受けとめるというのは、やっぱりそれほど簡単なことではないのだ。少なくとも、「真剣に受けとめる」という10文字ばかりのスローガンで簡単に達成されることではない。

 

話を聴くこと、それを受けとめること

 私たちは話をするとき、とりわけナイーブな話をするとき、「こんなこと話して馬鹿にされないだろうか」、「軽蔑されないだろうか」、「受けとめてくれるだろうか」と内心ぐるぐる感じながら、おずおずと口に出す。それは時に裏切られ、しかし稀に受け取られ、その稀の出会いに感謝し、ことばが届く喜びを知る。常に受けとめられるわけではないにしても、いや、だからこそ、少しでも思いが届いたことが分かったときに、私たちは生きる喜びを知るのだろう。

 

 言葉をちゃんと受けとめてもらうことは、言語的社会を営み私たちにとって、一つの大切な軸である。そのこと考えるために、ここでは鳥居さんの一首を取り上げてミクロに考えてみた。しかし実は、「受けとめる」だけでは抜け落ちていることがある。上で少し書いたけども、「届かない・受けとめられない」ことも、「受けとめる」と同じ重みで大切だからかだ。しかしまあ、それはちょっとまた考えたいと思う。分量も相当になってきたし。

 

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honto.jp

*1:この詩のミソは「など」と「その」だと思っている。この2文字×2、すごく重いよ。

*2:この「なんか」は、さて、どういう意味だろうな。

*3:親の「聴き役」をやり続けてそこから抜けられず、それが「苦しい」と認識することからも抜けられず、絡め取られて身動き取れない人はときどきいる。