こころの中の民主主義〜多様性あるこころを生きる〜

 最近、「こころの中の民主主義」ということを時々考える。

 というのも、時々「こころの中の独裁政治」になっている人を見るからだ。

 

 当たり前だけれども、私たちは一つの物事にもいろいろなことを感じる。好きとか嫌いとか最初に言い出したのが誰だかは知らないけれども(伊藤計劃)、この感情だって相交じることはある。「このお笑い芸人、好き」、「この作家の文体、嫌いなんだよなあ」くらいなら、まあある程度きれいに分かれている。しかし、好きすぎて嫌いになることもある。

 

 例えば、相手のことがとても好きで、好きで好きで好きすぎて、思い通りにならない相手に腹が立ってならない、とか。

 こんなに自分は好きなのにどうしてその思いに応えてくれないのか。私が好きな気持ちを相手が分からないのが、イヤになってきて相手のことが許せない。私をこんな苦しい気持ちにさせるあの人なんて、死んでしまえばいい。などなど、「愛憎入り乱れる」という表現があるように、好きが高じて嫌いが入ってくることは、ままある。多くのストーカー犯罪はそういうものだ。

 嫌いという感情にしたって、「好きの反対は無関心」と云われるように、相手に関心を寄せているから嫌い、ということもある。何かしら自分のこころの中に刺激されるところがあって、そこが刺激されるから嫌いになるのであって、嫌いな人はだいたい自分の中にどこか重なる要素があったりするものだ*1

 

 このあたりは極端な例だけれども、でも、私たちが抱く感情は、そんなきれいに分かれているものではない、ということだ。

 好きだし、嫌い。やりたいけどやりたくない。やらなくちゃいけないのはわかっているけどやる気が出ない。勉強したほうがいいのは確かだけれどもめんどくさい。醜いと思っていながら目が離せない。相手を傷つけると分かっていながらも、その考えが思い浮かぶ。

 こころの中で浮かぶ想いは、100%一つの意見で占められているわけではなくって、どんなに「すごい好き」な人にしたって、イヤなところはある。恋愛初期フィルターでは「そこがいい!」となることもあるが、まあでも、「いい!」と思ってるところと「ん?」となるところは同時にあってもおかしくない。というか、それが普通だ。だって、いろーんな気持ちを私たちはもっているんだから。

 

 ところが、ここで「独裁政治」になる人がいる。「やらなくちゃいけない」、「勉強したほうがいい」という気持ちがこころの中の絶対多数になっていたりすると、少数派の意見を見ないようにしてしまうのだ。

 「授業は出たほうがいいと思ってるんです」、「任された仕事は完璧にしあげないといけないと考えています」、「まわりの人に迷惑をかけてはいけないんです」、「男だからこうふるまうべきなんだ」。こうしたこころの中の多数派が、「でも、本当は出たくないんだよな」、「でも、もうカラダがきつい」、「でも、時々は甘えてみたい」、「マッチョな社会にはついていけない」という少数派の意見を押し殺す。数は力、とばかりに強行採決をはかり、「これが正論だ」と独裁的になる。

 

 これやってると、一時的にはいいかもしれないんだけれども、長い目で見るといろいろ破綻をきたすわけですよ。ほら、うつ病とか。

 世の中にいろんな人がいるように、自分のこころの中にもいろんな意見がある。ワガママな気持ちだったり、甘えたいような感情だったり、暴力的な衝動だったり。その中には、そのまま出てきちゃったら大変なものもある。だから民主主義的に、「まあ、そんな気持ちもあるけれども、とりあえず今は、ガマンしておこうや」と少数派の意見を斟酌しながらも、まあなんとか落としどころを探していければいいんだけれども、時に、この少数派の意見に耳を傾けるのが恐くなる人がいる。

 それは、ちょっとでもそっちを見ちゃうと、引っぱられそうになるのかもしれない。そこにあるのは、おそらく「おびえ」だろう。そういうことが少しでも自分の中にあると思うと、恐くなっちゃうのだ。自分の中にそういう考えがあると、いつの間にか発生したカビのように、それが知らない間にじわじわと繁茂していくことへの恐怖を感じているのかもしれない。

 

 人間のこころの中には、いろんな要素がある。その中には、なかなか自分でも許しがたい要素もあるかもしれない。でも、それでもどうしようもなく自分の一部だったりする。それを除去したらどうなるか? 削って、削って、削って、それで綺麗になれるというのだろうか? 「手術は成功した、しかし患者は死んだ」のように、悪いものを切り落とした挙げ句、命を落とすようなことにならないだろうか?

 

 和解するのが難しい、自分のこころの一部もあるだろう。どうしてこんなふうに思ってしまうのか、考えなければ楽なのに。でもついつい、そんな考えを持ってしまう。どうしたらいいんだろう、と途方に暮れる人もいるだろう。

 でも、「考える」ことは自由だと、ボクは思う。表に出すのは難しいかもしれない、でも、そういうこころの要素があってもいい。表通りに出なくてもいい、裏山でひっそりと暮らす分には問題ないじゃないか、とか。あるいは裏山まで隠れなくとも、海に出かけておきながら海の家でずーっとのんびり過ごすあり方とかでもいい。高級リゾートに出かけて、何もせず海沿いのベッドで寝転ぶなんてのも、最高じゃないか。メインストリームの人は、海に出かけたらサーフィンするもの、といわれても、まあでもずっとサーフィンしてられるわけでもないし、しなくちゃいけないわけでもない。いろんな人が、その人なりのおりやすいあり方で生きていけばいい。

 こころの中でも、そういう、自由なあり方の共存を、認めていってもいいんじゃないだろうか。

 

 数は力とばかりに押し切るのが、必要なときもある。えいや!と思って進まないと変わらないこともあるし、例えば目の前に火事が迫っているときなんかは、民主主義でどうしようと考えるよりはパターナリスティックに事を進めることがむしろ必要だ。でも、そればかりというのも、結局は禍根を残すだけとなる。その時、できる限り対話を進めて、できる限りの合意形成を図ろうとすることは必要な手続きなんだし、それが民主主義ってもんだ。

 自分のこころの中でも、そういう、対話による合意形成を図ることは大切だ。そうしないと、結局自分のこころがやせ細ってしまって、生きているのに生きている実感が持てないとか、そういうことになるんじゃないだろうか。

 

 

 なお、もう一つ、「じゃあ、ヘイトスピーチはいいのか? あれだって表現の自由だろう?」という問題もある。こころの中に、あまりにもサディスティックな想いが湧いてくる、とか、あんまり世の中に出すのは望ましくない表現もある、とか。それについては上記にほぼ答えは出てるけど、それはまたいつか時間のあるときに。

 

 なお、本稿は、まつむらまきお氏の以下のtweetに触発されて書いたことを付記しておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ま、この辺はユング心理学で云うシャドウですな。