金のない「大学生」とそれへの風当たり

 先日、買い物に出かけていたスーパーで、共産党さんが街頭演説をしておられた。そこでは「若者の声を聞く」と云うことで(たぶん)、「今の大学生が置かれる経済状況」の訴えがあった(おそらく民青の若者かな)。

 曰く、「京都市(市バス・地下鉄)は学割の優遇額が大阪など他都市に比べて少ない」云々、だったのだけども、うーん、共産党、戦略が80年代で止まっているなあ、というのが正直な感想だ。

 

 

 ここ最近、政治家あたりから、「国立大学の学生(卒業生)は、税金が投入されてるんだから、国のためにもっと働いてもらわないといけない」的なことばが聞かされるようになった。国立は国からお金が出ている、だから国のためにその税金分は返せ、と。

 

 貧すれば鈍す。

 

 そんな言い回しが脳内に現れたけどもそれはさておく。確かネットで見たんだけども、先のことばに対し「昔は「国立大に行ったなんて親孝行」と云われたのにねえ」とのコメントがあり、そうだよなあ、と思ったわけです。

 おそらく80年代、90年代くらい、ギリギリ2000年代においてもそうした発言がメインストリームだったと思う。「学費の安い国立大は親孝行」。ところがここ数年、加速するように、「それは税金が投入されてるんだから、その分奉公しろ」的な意見に傾いてきた。

 これ、いろんなところであるんだよね。「お金出してるんだから云うこと聞けや」ってのが。なんつーか、肥大した自己愛というか。

 

 これ、戯画的に描かれてるのは、アレですよね。『千と千尋〜』のカオナシ。「オレは国だぞ。金ならもってるんだ、オレの云うことが聞けないのか」。金で相手を縛る発想。

 この発想がいろんなところで蔓延しているのは、自分がそうされているからですよね。「オレは経営者だぞ。オレの云うことが聞けないのか。云うこと聞かないとクビだぞ」。「攻撃者への同一化」ではないけれども、苛められている子どもが自分より弱いものを苛めるように、過酷な状況におかれて生きのびる術として、経営者への同一化をする人があまりにも多いのだろうな。金を持っている=強い=そのやり方を真似すると自分もそうなれる。

 

  「みんなビンボが悪いんや〜」って、確か昔うる星やつらで見た気がするけど(竜之介だっけ? それはトランスの人か;よく考えたら先駆けやなあ)、ホントこれ、最近思う。お金がないから、金持ち(資本家)の云うことを聞かざるを得ず、それがあまりにも続いていしまったので、資本家の犬となって手先となって、スネ夫的にジャイアンの先回りをして生きのびる、術を、「術」としてでなく内面化してしまう。

 

 これが、スネ夫的人物だけでなく、のび太のほうも、「云うこと聞かないと生きていけないよね」となっているのが、本当に恐いところ。共産党さんがアウトリーチすべきなのは、本当はこの層であって(党の本来的にも)、「学生の皆さんが苦しんでいるのを、皆さん助けてあげましょう」というのではないと思うんだよ。

 

 「学生」がモラトリアムを謳歌していたのはおそらく20年くらい前まで。10年くらい前はその名残が若干あったけど、大いなるものへの同一化、規範の内面化はどんどん進んでいき、云われたことを素直に聞いている学生さんが本当に増えたと思う。その考えのほうが「合理的」だからね。

 世の中的なものも、モラトリアムを学生に許すことはなく、むしろ「特権階級」「高等遊民」のような価値観を憎むようになってきた。もっと学べもっと役に立つ人材になれ。まあこれは、世の中が先なのか学生が先なのか。いずれにせよ、冒頭挙げた共産党さんの戦略は、あまり奏功してないんじゃないかなあ、と思った次第です。