遠隔疲れには手を出すな!

 ……と、パクリタイトルを作ってみましたが。

 まあ、手を出すなと云われても「遠隔疲れ」を起こしがちなので、気をつけましょうね、というお話です。一応、大学生さんを対象に文章を作ってみたつもりです。

 

「遠隔学会」の面白さとしんどさ

  私が「ホーム」感を持っているある小さな学会があるのですが、その学会が今年はオンラインで開催されました。家にいながら学会に参加する、というあまりない体験だったのですが、期せずして「遠隔授業参加体験」になりました。

 

 それを受けての感想。

 

 「面白かった、けど、疲れた……」。

 

 その感想をもとに、遠隔疲れの理由について、そしてそれを防ぐ策を考えてみます。

 

面白かった理由

 まず、「時間の制限がない」。普通の学会だと、プレゼンがあってディスカッションして、という流れだけれども、時間の制限がないから、考えたことをじっくり文章にできる。そしてそこでやりとりできるから、議論としても深まりやすい。面白い

 もう一つ、「場所の制限がない」。学会発表だと、「これ面白そう……あ、でもこれとかぶってるわ……」と、「同じ時間に開催されている他の発表」は聴くことができないんですね。でも、遠隔学会では、「同じタイミングでの発表」がそもそも存在しないから、面白そうなものは聴き放題、ディスカッションも参加し放題。好きなようにできます。

 げにすばらしき遠隔学会。

 

疲れた理由

 これ、すべて、「面白かった理由」と同根です。つまり、時間と場所の制限がない

 ずーーーーっとやり続けてしまうんです。「あ、このテーマ、こうも考えられるんじゃ?」と思うと、そのことをコメントしてしまう。リコメントを受けて、更にコメントを考える。それを打ち込む。返事がある。またコメントを作る。ご飯を食べたあとでも、「あ!」と思いつくとコメントしてしまう。ネバーエンディングコメントーーー。

 時間と場所が制限されているのって、「気持ちを切り替える」上でとても大切になっているんだなあ、と痛感しました。要は「うまく休めない」んです、遠隔は。

 

「いることbeing」と「することdoing」

 いつもの学会なら、やはり行くのが目的みたいなところがあるんです。

 「おお、ここが○○大学か」とか大学の施設を見学したり、「○○さん久しぶり〜」とか旧交を深めたり、もちろん学会がないといかない土地の観光も少しはするわけです。まず「参加すること」があって、そこに「発表を聞くこと」が付随するわけです。なんなら、発表聴くのダルいな、すこし休憩しよっか、といって仲間と少しお茶したりすることもあります。いわゆる「情報交換」です(いや、こう云うとなんか議員さんの「視察」みたいなトーンがありますが、この時間、とっても大事なんですよ)。

 でも、オンラインなら。「その場にいるだけ」では「参加した気になれない」んですよ。なんてったって「家」にいるので。「家にいて書き込みをみて終わり」だったら、ネットサーフィン(死語?)となんら変わりがない。家でパソコンみてるだけだもん。

 

 となるとどうなるか。

 「なにかをすること」がないと、参加した気持ちになれないんですね*1

 ディスカッションへの書き込みを積極的にしたり、情報交換コーナーに書き込んでみたり、なにか「することdoing」がなければ、そこに「いることbeing」が可能にならないような気さえしてくる。そうすると、ひたすら「コメントを書いている」時間だらけになり、「ああ、この大学の雰囲気、いいなあ……」とか、「ここ、学会の機会でもないと足を運ばなかったなあ、いいとこだなあ……」みたいな時間が一切ない。「考える」ばっかりになって、「感じる」がおそろかになるんです。

 それは、たいそう、疲れる

 

「すること」の代表としての仕事、「いること」の代表としての居場所

 仕事とはまさに、「すること」です。何かをすることに対し、報酬なりなんなりが得られる。なにかの課題が設定されて、それを達成することが求められる。仕事というのはそういうもんです。

 一方「居場所づくりの必要性」ということも云われるように、「いること」もわれわれが生きていく上ではとても大切になります。何も特に求められることがなく、「ただいること」で充分な場所。それがなく、「すること」ばかりだと、人間はすり切れてきます。私たちが、ただいることを保障されている場所として、「居場所」というのはとても大切になってきます。

 これを「いることbeing」と「することdoing」と対比したのは、英国の精神分析家、Winnicott, D. W.と云う人です。Winnicottは、人間の基本は「いることbeing」なんだ、と主張しています。私たちは社会で生きる中で、どこか「することdoing」ばかりが求められているけれども、存在の基盤を支えるのは、ただ「いることbeing」なんだ、それがなくただ「すること」で埋めようとしても、底が開いたバケツにひたすらものを入れ続けるようなもので、いつまでたっても満たされない。だってほら、人間とはhuman beingというではないか、と。

 そうすると、遠隔は、「仕事」としては可能かもしれないけれども、「居場所」として使うのは簡単ではないだろうな、というふうにも思います。

 

(なお、関連記事として、以下を挙げておきます。多分こことつながると思う)

librairie.hatenablog.com

 

遠隔疲れには手を出すな!

 遠隔疲れは、「仕事」としてはある種起こりえることかと思います。仕事だもの、疲れる要素は必ずあるでしょう。しかし今、大学生の遠隔授業が必須となっています。そして、あちこちで、「遠隔疲れ」が云われるようになってきました。

 そりゃ疲れるよ。家でずーっと「仕事」が続くんだもん。

 でも、本来大学生が行うのは「学び」であって「仕事」ではないはずです。もちろんそこでは、何かをすることが求められはしますが、大学生が大学で得るものは、することdoingばかりではなく、そこにいることbeingを通して育っていくことでもあると思います。大学は知識の習得のみにある場所ではない、育ちを支援する場所でもあるのです。

 その意味で、学生さんには、「遠隔疲れには手を出すな*2」とお伝えしたいともいます。

 じゃあ、しかし、どうやって……となりますよね。

 

通常の授業なら?

 じゃあそもそも、普通の大学生活なら、そこがどうなっているか考えてみましょう。

 まず、大学には「時間割」があります。90分(最近は100分授業もあるそうですが)を一コマとし、コマのあいだに休みが挟まります。

 そして、「大学にいられる時間」も(大学によって違いますが)制限があります。遅くまでは残れなかったりしますし、交通機関の制限もあります。

 なにより、「大学では頑張っても、家ではだらだらする」ことができます。休息の場所と勉強の場所を分けることができるんですね。場所を変えるのは、気持ちをリセットする上で、とても大きな役割を果たしています。

 最後に、大学でもずーーーーっと頑張っているわけではありません。途中友だちと雑談したり、愚痴を言い合ったりぼんやりする時間もあります。講義の途中で寝ていることも可能です。

 つまりは、こうした中で「息抜きの時間」を適宜取っている、ということが考えられます。それらはすべて、私たちが支えられている「いること」に属する活動だと云えるでしょう。もちろんそれは、「時間の無駄だ」という人もいることでしょう。しかし、そうした「時間の無駄」によって、私たちが生きているbeing感覚を持てるのではないでしょうか。

 

意識して「時間を区切る」こと!

 ここから考えると、遠隔疲れにならないようにするためには、やはり「きちんと息抜きをする」ことがなによりも求められてくるでしょう。

 その対策の一つには、大学には時間割があるので、時間割のとおりに勉強して、時間割の外には(あまり)持ち出さないようにする、ということがあるでしょう。もちろん、通常でも、授業時間外にやることもあるから、すべてがすべて時間内にやれるわけではないでしょうが、それでもやはり「時間割を意識」するだけでもだいぶ変わってくると思います。強制的に、時間を区切るわけです。

 可能なら、「場所を区切る」ことをやってもいいのですが、これはしかし、とりわけ「外出自粛」が強いられるような状況では難しいですよねえ……*3。図書館も閉まっていたりするし、公共空間も同様です。家の中で「ここをキャンプ地とするぅ!」と云ってもいいでしょうが*4、豪邸ならともかく、普通の家ではちょっと、場所が区切りにくいところがあります。だからこそ、せめて「時間だけでも区切る」ことが大切です。

 もう一つは、「愚痴を言い合える仲間を見つける」ことかと思います。ただ、案外オンラインで難しいところがあります。自粛警察だのなんだのが云われる中、SNSで自由なやりとりをするのもシビアな雰囲気がありましたし、「知っている人とのやりとり」ならともかく、「ほぼ初対面でのやりとり」に文字のみを用いて、なおかつそこで「安心感を持てる」のは、相当厳しいのではないかと思います。対面だったら分かる、その人の持つ空気感、距離感、親しみやすさがすべて分からないですからね……。でも、なんとかしてこれを見つけてほしいなあ、と思います(この状況だから、古い友人と連絡を復活させやすくなっている、との話も聴きますので)。

 

「休むのも大切な仕事」です

 ということで、「遠隔疲れ」に対応するためには、「休むのも大切な仕事」です、という、うつ病の人へのアドバイスが当てはまるのではないかなあ、と思いました。

 うつ病の人は、執着性格と古くに云われるように、休むのがうまくないと云われています。まじめにコツコツ、云われたことをちゃんとやろうとする。課題が出ると、その課題にすべて対応しようとして、ヘルプを出せずに倒れてしまう。

 それはつまり、生き方のモードが「いること」にならず「すること」で覆われてしまっているからでしょう。この、遠隔が続く状況は、「すること」に覆われてしまいやすくなると云うことを意味しているのだと思います。つまり、通常取られている「強制的な休み」(休み時間)が取りにくいのです。いつまで経ってもズルズル続けてしまう。

 もちろん、やりたいこと、趣味ならばそれでもいいのでしょう。しかし、本来はそこまでエネルギーを注ぎたくないことにエネルギーを注ぎ続けるのは、「仕事」としては不健全です。そう陥らないようにするには、「休むのも仕事のうち」と考えて、しっかりと休息が取れる配慮を自分なりにやっていくことです。100%はできるわけがない。ある程度のクオリティになったら手放すことも大切。そう考えて、まあ、ぼちぼちやっていくのがいいのではないか、追い込まれそうになっていることに気づいたら「強制的にでも休みを取る」ことが必要なのではないか、そして自分自身の「いること」を支える時間を取り戻さなければいけないのではないか。そんなふうに思います。

 

 ……しかし、フリーランスの人ってすごいなあ、とこの数ヶ月、痛感しました。大変ですよ、時間の区切りがないって。まあでも、だから「オフィス(仕事場)を持つ」ことが必要になるのでしょうが。そうでもしないと、すぐ、「いること」が脅かされていくのでしょうね。私たちの「いること」は、それほどまでに脅かされやすい性質のものなのでしょう。

*1:いや、私の特性ゆえかもしれませんが。

*2:いや、よく考えたらこの日本語、おかしいんですけどね。いいじゃん使いたかったんだから。

*3:家庭でのDVが増えるのも、やはり家庭内で「逃げ場」がなくなるからでしょう。「場所の区切り」はやはり大切です。

*4:まあでも、「ここを〜!」という宣言って大事ですよね。あの一言のおかげで、何もない空間が一応は区切られますからね。あ。元ネタは「水曜どうでしょう」です。