「食のみやこ」を(ツッコミ的に)楽しむ

 「どっか行きたい欲」(時々発症する)の赴くまま、関西近郊の旅館をいろいろ見てたら、京都の北の方にある道の駅「食のみやこ」とやらにホテルが附属していることを発見。

 

 ほほー、泊まれるんだ、行ったことないし行ってみるか。確かかなり大きい道の駅という触れ込みだったな。

 道の駅なら、道の駅自体に食べるところもあるだろうから、ホテルの晩ご飯を付けなくても楽しめるかな?

 

 そう思い、公式ウェブサイトを検索してみたあとの記録がこちらです。

 

楽しそうな匂いがする公式サイト情報

tango-kingdom.com

 「約8個分広大な敷地内」……?(これは今引用して気づいた) 不定冠詞のaかな? ダイソー的な「ザ・文具」に対抗心を燃やしたのだろう。

 とりあえず、「園内のご案内」見てみるか。

 

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食べるところ

 

 いろいろあるなあ。

 

 ん? ……「休業中」が、1、2……5? 半分?????

 

 

 やばそうな匂いがしてきました。

 なんか、車でひょろーっと旅に出てて、急に似つかわしくない西洋風の建物だと思って近付くと、「従業員数>客数」でメンテナンスが行き届かない施設の匂いが。

 

 営業時間、見てみよう。

 

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2020年2月〜3月の営業時間


 ほほー、お食事処が五つあるうち三箇所は土日祝日のみ営業で、三箇所は一応週休一日で営業。

 ……って、タピオカエイトって何。さっきになかったんだけど。

 

 ポニー乗馬と小さな動物園、「3月1日から休業」? でも「3月1日以降もエサやりはできます」?? なにそれ。

 

華々しいデビュー当時の売り文句

 この道の駅、できた当初(2015年)は結構大々的に喧伝されていたのを覚えている。いろいろニュースになったりしてたし、プッシュしてるのを見た。

 例えばこんなの。

kansai-kids.com

 休日のファミリーで出かけたくなる、素敵スポットですね。

 

 まあ、ついでに検索太郎してみた。パソナさん。

 

www.pasonagroup.co.jp

 「10次産業化拠点」と来たもんだ。

 なにそれ。

 

 上記リンクによると。

 

地元食材を用いたこだわりの食事や付加価値の高い加工品の開発、また農漁業体験など観光業との連携によって地域の「6次産業化」を推進するとともに、地元産業を担う次世代を育成する「人材育成」(4次産業)を加えた「10次産業化拠点」として、

 

 なるほど、6+4で、10ね。6+4は、まあ、確かに、10か。……っていうか、私が学校で習ったのは、第一次産業農林水産業)、第二次産業(工業)、第三次産業(商業)までだから、そもそもの6次と4次産業知らん

 

6次産業ってなんですか

 調べてみた。まずは、6次産業からだな。なんと、農林水産省のサイトがありました。

 

農山漁村の「6次産業化」とは、どのようなことなのですか。(子ども相談):農林水産省

 

農林漁業者(1次産業)が、農産物などの生産物の元々持っている価値をさらに高め、それにより、農林漁業者の所得(収入)を向上していくことです。生産物の価値を上げるため、農林漁業者が、農畜産物水産物の生産だけでなく、食品加工(2次産業)、流通・販売(3次産業)にも取り組み、それによって農林水産業を活性化させ、農山漁村の経済を豊かにしていこうとするものです。

 

 ほほー。一次産業(農林水産業)をやっている人たちが、一次産業をやるだけでない、工業に属する食品加工(=第二次産業)もやるし、商業に属する販売(=第三次産業)も行う、ということか、まあ、道の駅とかJAの販売所とか、そういうやつか。

 

「6次産業」という言葉の6は、農林漁業本来の1次産業だけでなく、2次産業(工業・製造業)・3次産業(販売業・サービス業)を取り込むことから、1次産業の1×2次産業の2×3次産業の3のかけ算の6を意味しています。  

 

 ……??????

 

 なぜ掛ける。

 

 

 

 ちなみに提唱者はこの人。東京大学農学部の名誉教授らしい。

今村奈良臣 - Wikipedia

 

 

統計の勉強

 ここで、文脈と全く関係ないんですけど、ええ、全然、全く、これっぽっちも関係ないんですけど、お勉強をしましょう。

 数字の使い方にもいろいろあるよ、と云うお話です。統計の初歩で学ぶことです。まあ、詳しくはリンク先を参照するほか、各自でググればいいと思います。

 

mathwords.net

 

  ま、ものには数字でラベルが付くことがあるけども、四則演算加減乗除、つまり足したり引いたり掛けたり割ったり)していいものとしちゃいけないものがあるよ、というルールです。

  名義尺度……単純に記号として付けられた分類。郵便番号など。

     もちろん、足したり引いたりしてもどうにもなりません

  順序尺度……順番にのみ意味があります。レースの順位など。

     これも、足し算もかけ算も意味を持ちません

  間隔尺度……間隔が等しいです。温度や年号など。

     この場合、足し引きは可能。かけ算割り算はできない。

  比率尺度……0を持ち、比率として有効です。長さなど。

     足し算引き算だけでなく、かけ算割り算もできます

 

 例えば、「ボク、かけっこで2位だったんだ! 1位より2倍すごいでしょう!」ということは云えません。

 それは単純に、順番を表すものだから、1位は2位より優れているけれども、1位と2位、2位と3位の間隔が同じというわけではありませんね(例えばタイムを比較すると、5秒差、14秒差などはあるけれども、それは時間が比例尺度だから云えることです)。

 

 世の中には、足したり掛けたりして意味を持つ数字と、意味を持たない数字がある、と云うことをお勉強できたでしょうか。

 

 「食のみやこ」に何の関係もありませんけど、勉強になりましたね。

 

続いて、4次産業を調べた

 4次産業で調べたら、「第4次産業革命」が出てきてややこしいな。

kotobank.jp

産業分類上の概念の一つ。情報産業,医療産業,教育サービス産業などの知識集約産業をいう。これらは旧来,3次産業のなかに概括されていたものであるが,特に 1960年以後3次産業部門のなかでそれぞれ性格の異なった産業の発展が著しく,一括することが無理であると考えられるようになって提唱されはじめた分類の概念である。

 

  「知識集約産業」が、4次産業とありますな。

 

 ……あれ?

 

 さっきのパソナさん。

 

地元産業を担う次世代を育成する「人材育成」(4次産業)

 

 じんざい、いくせい……? 我田引水牽強付会? 詳しい定義がないから、何を云ってもいいと思ってらっしゃる類かしら?

 

足し算

 さて、本題である「10次産業」に戻ろう。

 

 どうやら、

 

農林水産業の人が、自ら加工もし販売もする6次産業」

と、

「“人材育成”の4次産業」

を、

 

    足して

 

 「10次産業」

 

っていってはるみたいですわー。

 

 ようわかりまへんなあ、どういう計算してはるんか。けったいな計算ですなあ。

 

諸々ツッコミ

  まあ4次産業くらいまではまだいいとしても、その間の5とか7とか8とか9とか、どないなっとんねーん、という考え方を全くすっ飛ばして、

 

「一部で云われている(とは云え農林水産省もつかってる)6次産業と、自分たちの都合よく定義した4次産業を、合計したら10になるよね? ほら10次産業じゃん! 数字が大きいってすごいよね?!」

という、クワガタの大きさ比べの方がまだしも意味がありそうな数字のマジックによって作られた宣伝文句であることがよく分かりました。

 

 もうそろそろ疲れてきたので、あとは細かいツッコミだけにしよう。

 

 公式サイトの会社案内は、

会社案内

 まあ、パソナさんとのJVなんですねー、とか(既に見たが)。

 

 

 さっきの公式から飛んだ「園内のご案内」だけど、

公式は

 tango-kingdom.com

なのに、このご案内は、

 tango-kingdom-howto.com

と、なぜかURLが微妙に違うとか。

 

  まあそんなのはどうでもいいよな。

 下の方のリンクにある、「丹後七姫劇団」とか、今どうなってるのかとっても気になりますね。19年9月から半年ほど更新されていないスケジュール(2020年2月現在)とか、素敵。

www.tango7hime.com

 なんか、「平安神宮という絶好の観光スポットの隣であるにも関わらず、どうも微妙な集客絶賛営業中の十二十二に併設されていた劇団」を思い出しました。

京都・時代祭館 十二十二(トニトニ)

 えーっと、京都Sushi劇場と、キーボードに入力したくなくなる名称の劇団でしたね。

秋元康さんプロデュースの劇場が長期休館 平安神宮に昨秋開場|経済|地域のニュース|京都新聞

 うち、比較的近所なんですが、このニュース見て、「え、どこにそんなのあったん?」というのが最初の感想でした。土産物屋だと思ってた*1

 

 ちなみに検索太郎さんしたら、その前身の「丹後あじわいの郷」の情報もあって、いろいろ勉強になりました。

www.rs-trip.com

 あ、このブログ見てたら、旧丹後あじわいの郷のマップにある「丹後王国タワー(閉鎖中)」に記憶が呼び覚まされた。

丹後王国タワー - 廃墟検索地図

 検索して出てきたのは、廃墟好きの皆さんによるサイト。しかしこれ、高松伸設計なんですね……。廃墟……。

 

おわりに〜東京という「外資系」〜

 最後に少しだけマジレスすると、こういう「地域活性化」のありかた、本当に地方を潰していると思う。

「衰退化に危機を持つ地方

 →その地に発しない広告的プロデュースを依頼

 →人材派遣会社が中間搾取

 →広告打てるうちは人が来るがそのうちに衰退

 →廃墟化進行」

 

 これ、あちこちで起こってることかと思う。淡路島のウェスティンの隣(淡路花舞台)とか。作るだけ作って、あとのメンテナンスは何も考えなくて、作ってほったらかしになっているのを、その土地から離れない人たちが俯きながら守っていく。上は、責任をとるという形で厄介払いされ、また新しい他所からの人がやってきて土地の資源を食い荒らして帰っていく

 

 一見、その地に雇用を生み出しているように見えるけど、ここでパソナが噛んでくる、というのは、そこに「人材派遣」という形で儲かるからだろうな。となると、結局大きなお金は地方に落ちず、本来もっともらっていいはずの賃金が、責任をとりたくない経営者と人材派遣の名のもと中間搾取する派遣会社との結託によって減らされていってしまう。

 

 これ、誰が喜んでいるんでしょうね。一部にいい思いはさせているとは思うんだけど、それはどうもトリクルダウンせず、一部にとどまっているように思う。

 

 ふと連想するのは、いわゆる「外資系」。すべてがすべてそうだとは云わないけど、リゾート開発で外資が入ると、大きなお金は外資に行って結局その土地の人は労働力として安く買いたたかれるだけ、という話がある。経済的植民地支配のようなもんだ。

 これを、日本国内の、東京と地方でやっているだけではないのだろうか。その地方のことをあまり考えない、東京という「外資系」

 

 まあ、私もそういうリゾート全く行かないわけじゃないから、あまり大きなことは云えないんだけど(現に「どっか行きたい欲」に応じて、アジアのリゾートホテル旅行記をこの一週くらい見まくった)、こういう、「地方を一見活性化させるように見せかけて結局は地方の搾取に過ぎない地方活性化」が、ますます東京一極集中を加速化させてるんだろうなあ、と思うと、暗澹たる気持ちになった。そりゃ若者東京行くさ。搾取する側になってやるとしか思わんわ。

 

 ……あれ? タイトルで書いた割には「楽しむ」要素がなくなったな。まあいいか。

*1:勝手な推測ですが、単なる土産物屋にせず劇場を併設したのは、「土産物屋のみを平安神宮境内に開設するのはいろいろ都合が悪いから文化的名目を付けるため」だったと邪推している。京都市の資料とか調べたらたぶん出てくるだろうけど。

アナ雪1とアナ雪2〜マインドフルネスv.s.精神分析(またはカミダーリ)〜;暫定版

 Twitterレベル。

 

 アナ雪2は違和感バリバリで、多分それはまた考えますが、そのアイデアスケッチ。

 

 アナ雪2は、なんか幻聴聞こえて、使命感に駆られて、過去やルーツを探しに行くたびでした。そしてinto the unknownって北の世界に行ってしまいます。

 何が違和感あったかって、オラフによる再現?シーン。コミカルではあるんだけど、「なにそのまとめサイト?」ってな気分になって、私はちょっと好きになれず。youtuberかよ。

 

 まあ、父や母の記憶がvisualとして再生されたりするんですね。これもyoutube時代かなあ。「物語」じゃなくって、「それそのもの」になるんですね。過去が過去にならず、その中に迷い込む。再生されて、書き換えられる。この、「物語としての強度の欠如」が、私はどうもダメだったようです。

 

 どうも、この「過去が過去にならず現在として現前し、しかし基本過去指向」なところが、アナ雪2の全般を覆っていたムードかと思います。すごーく、「今までに何があったか」にこだわっているわけですね。父母がしたこと、自分のルーツ、その他諸々。

 

 んでこれ、先の考察とも合わせて考えると。

 

librairie.hatenablog.com

 

 アナ雪1は、「人と交われない、過去を隠さざるを得ない、と考えていたけれども、もういい! 私は私として、今を受けいれて生きる!」という、マインドフルネスあふれる発想だったわけですよ。Let it go。放下著。

 

 アナ雪2、これに比べると見事に過去指向です。マインドフルネスに比べたら、(中途半端な)精神分析というか、「抑圧されたものの回帰」なんですよね。知らされていない過去のルーツが、自分に声を聴かせる。その声に従いいにしえの道を辿り、巫女として生きる道を見つける。

 ……あれ? そう考えると、召名の話なのか? カミダーリになって声が聞こえる中で、ルーツを探って巫女として世俗を離れて(北の世界で)生きる。でも、ある意味「あの世に行って帰ってこない、世俗のことは世俗の妹に任せた」って話で、それは魂のsplitを意味するものでもあるよな。この世で生きることを諦めた。うーん……精神分析を受けていたら精神分析の世界から離れられなくなった、みたいなもんか?

 

 

 また考える。

 

 

Let it goとマインドフルネス

 アナ雪2、見に行ったのですが、ちょっと好みに合わず、そして今さらながらアナ雪1はよかったなあ、と云うことを考えています。

 

 アナ雪(1)、何がいいか、と自分の中でいろいろ考えていたんですが、やはりLet it goの歌詞に尽きるだろう、というのが結論です。

 

Let it goはどう訳す?

 ここをどう訳すかは、いろいろ話題になっていましたね。「ありのーままのー」は、非常に日本的に訳されたなあ、と思います。

 この歌詞、Letと云うことばを非常によく使う。

 

 Don't let them in

 Don’t let them see

 don’t let them know

という、Don'tから始まるletもあり、

 let it go

 let the storm rage on

というlet。

 

 このletの感覚、英語に弱い私には難しいけど、「○○に〜させる」という使役の意味、と云えばいいのだろうな。周りの人をうちに入れたり(in)、見せたり(see)、知られたり(know)してはいけない。そうおもむくままに(go;これはちょっと意訳かな)、嵐も吹きすさぶがままに(rage on)しておこう。そういう歌詞だ*1

 

 この感じ、何か知ってるんだけどなんだっけ……と思い、まず思いついたのがこのことば。

 

www.rinnou.net

 放下著(ほうげじゃく、読む)。私はこれは、『あっかんべぇ一休』から知ったんだけども、「すべて捨て去ってしまえ」くらいの意味のようです。

 

 あ。

 

 これ、Let it goやん。

 

 ……ということで、

 

  「ありのーままのー」

 

は。

 

  「ほげじゃー ほげじゃー」

 

と訳すのがより日本語として近いと結論づけました。

 

 ……多分流行らんかったな、これだと。

 

禅思想からのマインドフルネス

 まず、let it goが放下著と訳せるなあ、と思ったあと、「let the storm rage on」も、非常に禅っぽいなあという感じがしたんですよ。"let"が禅っぽい、と云ってもいい。嵐があろうとも、そのまままずは受けとめよう、と。

 どうしてこんな東洋思想が、と思ったのですが、ふと思いついたのが、数年前に起こったマインドフルネスブーム。

 

 マインドフルネス、は……まあNHKが比較的引用するなら無難かな。

www.nhk.or.jp

 もう一点、これも引用しておこう。自分のアンカーとしても。

http://www.p.u-tokyo.ac.jp/soudan/070nenpo/pdfs/2015_fujita.pdf

 これは、東大の心理教育相談室の公開講座で、卒業生でもあるお坊さんがマインドフルネスについて、難点も含めて語っているので、読める人はこっちがいいかな。

 

 私も詳しくは分かってないけど、あるがままのこころに目を向けて、今起きてくる気持ちを、ただ受けいれる。それがマインドフルネスの雑な紹介です。

 

 

 この東大の公開講座にもあるけど、元々は仏教の禅の瞑想法が、アメリカ西海岸で取り入れられて抽出されたもの、だったはず。ここにあるけど、アメリカでは非常に流行って、2014年にはタイム誌の表紙にもなった、とあります。

 

 アナ雪、公開は2013年。

 

 そう考えると、マインドフルネスブームが起きて、西海岸でいろいろと取り入れられてワークショップなども起きていた頃かと思うのです。タイムの表紙よりは早いけれども、表紙になるのはいろいろムーブメントが生じていたあとなのだから、制作中にマインドフルネスが流行っていた、と考えても差し支えないと思うのですよ。

 

結論

 マインドフルネスブームが、Let it goの背景にあったのではないだろうか。

 その意味では、「ありのーままのー」と云うのも、間違いではないのかな。「まいんどーふるねーす」でもよかったかもしれないけど。

 

 ……まあ、私は「ほげじゃー ほげじゃー」を強く主張しますがね。

*1:20200228追記;このdon'tとletって対になってるな、と気付いた。Don't let them inだけでなく、conceal, don't feel, don't let them knowとかの、凍り付かせる方面のことばと。

金のない「大学生」とそれへの風当たり

 先日、買い物に出かけていたスーパーで、共産党さんが街頭演説をしておられた。そこでは「若者の声を聞く」と云うことで(たぶん)、「今の大学生が置かれる経済状況」の訴えがあった(おそらく民青の若者かな)。

 曰く、「京都市(市バス・地下鉄)は学割の優遇額が大阪など他都市に比べて少ない」云々、だったのだけども、うーん、共産党、戦略が80年代で止まっているなあ、というのが正直な感想だ。

 

 

 ここ最近、政治家あたりから、「国立大学の学生(卒業生)は、税金が投入されてるんだから、国のためにもっと働いてもらわないといけない」的なことばが聞かされるようになった。国立は国からお金が出ている、だから国のためにその税金分は返せ、と。

 

 貧すれば鈍す。

 

 そんな言い回しが脳内に現れたけどもそれはさておく。確かネットで見たんだけども、先のことばに対し「昔は「国立大に行ったなんて親孝行」と云われたのにねえ」とのコメントがあり、そうだよなあ、と思ったわけです。

 おそらく80年代、90年代くらい、ギリギリ2000年代においてもそうした発言がメインストリームだったと思う。「学費の安い国立大は親孝行」。ところがここ数年、加速するように、「それは税金が投入されてるんだから、その分奉公しろ」的な意見に傾いてきた。

 これ、いろんなところであるんだよね。「お金出してるんだから云うこと聞けや」ってのが。なんつーか、肥大した自己愛というか。

 

 これ、戯画的に描かれてるのは、アレですよね。『千と千尋〜』のカオナシ。「オレは国だぞ。金ならもってるんだ、オレの云うことが聞けないのか」。金で相手を縛る発想。

 この発想がいろんなところで蔓延しているのは、自分がそうされているからですよね。「オレは経営者だぞ。オレの云うことが聞けないのか。云うこと聞かないとクビだぞ」。「攻撃者への同一化」ではないけれども、苛められている子どもが自分より弱いものを苛めるように、過酷な状況におかれて生きのびる術として、経営者への同一化をする人があまりにも多いのだろうな。金を持っている=強い=そのやり方を真似すると自分もそうなれる。

 

  「みんなビンボが悪いんや〜」って、確か昔うる星やつらで見た気がするけど(竜之介だっけ? それはトランスの人か;よく考えたら先駆けやなあ)、ホントこれ、最近思う。お金がないから、金持ち(資本家)の云うことを聞かざるを得ず、それがあまりにも続いていしまったので、資本家の犬となって手先となって、スネ夫的にジャイアンの先回りをして生きのびる、術を、「術」としてでなく内面化してしまう。

 

 これが、スネ夫的人物だけでなく、のび太のほうも、「云うこと聞かないと生きていけないよね」となっているのが、本当に恐いところ。共産党さんがアウトリーチすべきなのは、本当はこの層であって(党の本来的にも)、「学生の皆さんが苦しんでいるのを、皆さん助けてあげましょう」というのではないと思うんだよ。

 

 「学生」がモラトリアムを謳歌していたのはおそらく20年くらい前まで。10年くらい前はその名残が若干あったけど、大いなるものへの同一化、規範の内面化はどんどん進んでいき、云われたことを素直に聞いている学生さんが本当に増えたと思う。その考えのほうが「合理的」だからね。

 世の中的なものも、モラトリアムを学生に許すことはなく、むしろ「特権階級」「高等遊民」のような価値観を憎むようになってきた。もっと学べもっと役に立つ人材になれ。まあこれは、世の中が先なのか学生が先なのか。いずれにせよ、冒頭挙げた共産党さんの戦略は、あまり奏功してないんじゃないかなあ、と思った次第です。

論文の構造〜通販番組を参考に〜

 あ、研究論文の構造って、通販番組で説明できるなあ、と思ったので書いておく。まず、科学論文は、「問題・目的・方法・結果・考察」という五つから構成されます。もちろんそうじゃないのもあるし、問題と目的が一緒になったり、考察の最後に「まとめ(結語)」入れるとか、あるいは「要約」つけろよ、とかまあいろいろバリエーションはありますけども、基本はこの五つです。

 そのそれぞれ、どんなことを書くのか見てみましょう。

 

1.問題

 これは、通販番組で云う、「高いところの枝を切ろうとして脚立から落ちる」とか、「液状のものをこぼしてしまい、カーペットがぐちゃぐちゃ」とか、「包丁で切ろうとしても、トマトがくずれてしまう」とか、その辺に相当します。

 論文では、何かテーマが設定されます。そのテーマに関する先行研究などを引用して、「ここが今、問題となっているよね」というのを読み手にも共有してもらうのが「問題」の役割です。

 

 だから……例えば、小学校での図工教育とかで論文書くとして(知らんけど)、「子どもたちが彫刻刀でケガをする……そんなこと、ありますよね」みたいなことを、先行研究を組み合わせて示すのだ。こんな感じに。

 

 小学校では、彫刻刀を用いて版画を行うことが学習指導要領で定められている(文部科学省、2010)。その指導法において、佐藤(2014)は、版画教育における彫刻刀の仕様は絶対的なものであり、その中で子どもたちは古今の版画に触れ、情操が養われるとの考えを示している。このように、彫刻刀を用いた版画は、小学校において当然のものとして考えられている。

 しかし一方、その使い方には注意が必要だとの声も挙がっている。例えば小学校保健調査によると(厚生労働省、2015)、小学生のケガの5番目として、彫刻刀の誤った使用によるものだとのデータが上がっている。これについて塩谷(1999)は、そもそも彫刻刀を使用することがおかしいのではないかとの問題意識から、彫刻刀を版画教育から廃し、彫刻刀を用いない版画教育の可能性を提唱している。

 確かに、このように危険性を排除していくという方向性もあるだろう。しかし、リスクを学ばずに安全なことだけ体験していくのが、子どもの成長に繋がるのだろうか? 彫刻刀を排除することよりも、彫刻刀を用いつつ、しかし子どもたちのケガを未然に防ぐにはどうしたらいいか、との方向から考えていく必要があるのではないか。

 

 えーっと、中身は適当なので、「どこにそんなこと書いてあるの?」とかは探さないでください。今5分くらいで考えた適当な文章です。

 これ、要するに、通販番組の冒頭でしょう? 「階段を登ると膝が、痛い……」とか、そういうやつ。そういうのに時々、「中高年の約半数が階段の上り下りに不安を感じている(番組調べ)」というのが付くことがあるが、要はこれが、「先行研究」だ。そういうデータを幾つか挙げて、「確かに、こういうこと、あるよねえ」って読者に思ってもらうのが、「問題」の役割です。

 

 大切なのは、先行研究を駆使して、「あるある、こういうこと」と同業者に思ってもらうことです*1。「こういう状況でこういうこと、あるよね」、「この素材においてこの現象、まだ未解明だよね」とか、そういう「研究者あるあるネタ」について、先行研究を踏まえて上手にまとめていけたら、「問題」が完成します。

 

2.目的

 これは、通販番組で云うと、「そこで本日ご紹介する、この商品です!」に相当します。

 

 いろいろあるあるネタとして、「問題」をまとめてみました。そのことが、この研究で解決するよ……とは論文の場合にはいかないのですが、少なくとも掲げた「問題」に対して、一定の方策を見出すのがこの研究であって、その方策として、「研究の目的」があるわけですね。「こんなふうに困っているでしょ。それを解決するために、このことを考えなくっちゃね」、これを「目的」として書きます。

 

 筆者は小学校の図工の時間において、安全に彫刻刀を使う試みを行ってきた。そのためにいくつかの工夫をしており、そのことを紹介することは全国の小学校教諭にとって意味のあることだと思われる。今回の研究では、この取り組みを紹介し、安全に彫刻刀を使うための工夫について伝えるとともに、この安全に彫刻刀を用いる活動の中で見えてきた子どもたちの変化から、彫刻刀を用いることの意味を考えていきたい。

 

  ま、こんな感じかな。

  かなり、通販番組とは違う形になりますが、「自分はこれからこの商品を紹介するよ」と云うことと、「この商品はこういうものに使えるんじゃないかと思うよ」とか、そういうことを書くのが「研究の目的」です。

 

 で、実のところ、「研究の目的」って、一番大事なんですよね。一番サラッと書ける(=短い)箇所ではあるけど、論文のカナメはここではないか、と最近考えている。人体のカナメが腰だとしたら、論文のカナメは「目的」。どちらも目立ちにくい場所だけども、ここがすべてを決める。

 ……というのも、小学校の図工教育とかは全然関係ないんだけど(全く知らないし)、実践分野の研究(実践知の構築)を目指す立場の人にとって、「どのデータを入れるか」はけっこう難しい問題なんですね。「学級運営について」とか考えてみても、学級で起こることってあまりにも多すぎて、まとめきれない。どの情報が大事なのか不要なのか、見えてこない。

 そんなときに、「じゃあ、この研究は何を目的とするのかな?」と考えると、「あ、これは要らないや」、「あ、これは要るね」という判断ができるようになるんです。

 「目的」というものがあって、それに対して必要なものが見える。「海外旅行にいくんですけど、何が要りますか?」と云われたって、「パスポートは必須だけど……そもそもどこに行くのよ」って話になると思います。「冬のヨーロッパです」、あ、じゃあ防寒には気をつけてね、とか、「台湾に行きます、台北九份です」、あ、そうなの、九份は雨が多いと云うから雨具は忘れないでね、とか、「どこに行くか(&何をしたいか)」によって、持参物は変わります。論文も一緒。「何を明らかにしたいか」によって、必要な記述は変わってきます。

 

3.方法

 通販番組では、ほぼ「結果」に紛れているけれども、「通常の包丁と比べてみましょう」とか、「従来品と比べてみましょう」とか、この商品の有用性をどのようにして明らかにしようとしているのか、その方法論を示す箇所です。

 

 論文では、(実践型の研究だとないこともあるけども)実験道具であるとか実践背景とか、次に出てくる「結果」の背景にある現実的な事象をまとめている箇所です。何を使ったのか、いつやったのか、誰にやったのか。要は「事実関係」をまとめて提示しています。

 

対象:A小学校 5年生

時期:2015年〜2018年

教科書:光村出版 新しい図工 5上

 

 こーんな感じで、事実関係をまとめて示しておくのです。他の人が同条件で再現しようとするときのヒントになったりします。あ、さっき「目的」を一番サラッとかけるといったけど、本当の意味で頭を悩ませないのはこっちかな。だって事実を書くだけだし。

 

4.結果

 通販番組なら、「ほら、こんなにきれいに取れました(うわあ←観客の声)」みたいな部分です。「高いところの汚れも、こんなに綺麗に」、「落ちにくいフライパンのこびりつきが、一発でキレイに」、「切りにくい枝も、楽々カット」、えーっとあとなんだ、まあ適当に想像してください。

 

 研究論文では、「方法」で示したやり方に基づいて、どのようなデータが得られたかを示す場所です。具体的事実、客観的出来事、実験結果などを示します。

 ここに考察入れちゃダメなんですよね。この辺は「科学」を名乗る特徴かもしれません。「事実と推測を分ける」なんてことはよく云われます。「事実として生じたこと」と、「そこから考えられること」は分けなければいけません。結果というのは、まさに証拠evidenceなのです。ま、「結果と考察」と混ぜる人もいるけども、それはそれでアリなんですが、でも、結果の記述か考察の記述なのか分からない書き方をしていたら、間違いなくつっこまれるでしょうね。

 科学は再現性が大事なので、「同じ手続き(方法)に基づけば同じ結果が得られる」というのは大前提な訳です。だから、「方法」と「結果」は、客観的に書く必要がある。いくら、「○○細胞は、ありまーす」といったところで、同じ方法を取って同じ結果が得られないと、信じてもらえないってわけなのです。

 ……まあでも、この辺は人文系だともう少しゆるかったりしますが。定性的(質的)研究と云われたり実践研究と云われたり、最近では「当事者研究」というものもあるけれども、そういったものは「厳密な再現性」は求められませんね。人間に関わる研究はある程度文脈依存的なものも大きいから。ただでも、その「文脈」をきちっと記述していこうや、ってのが最近の流れのように思います。

 

 A小学校の図工の時間においては、彫刻刀を扱う前に、一時間説明の時間を設けている。まず……

 

 ここになるとちょっとボロが出てきそうになるので、架空例は割愛。具体的にどのような取り組みをしたか、どのような結果が得られたか、どのようなデータがあるのか、そうしたことをここでは示します。

 

5.考察

 通販で云うと、商品の魅力を遺憾なく語る場所です。「この商品さえあれば、皆さんのお困りごとは一挙解決!」とか、「これ一つあれば、今までの家事で使っていた、これだけの道具をおかなくって済むんです!」とか、まあ他の商品との比較などをしながら、紹介した商品の有用性などをいろいろ示すわけですな。

 

 論文は、通販とはちょっと違うんだけども(おい)、でもそれでも、「結果」に基づいて、当初の「目的」を達成するために、あれやこれやと考える部門です。まあでも、「ほらこの考えによって、よりクリアになったでしょ?」とか、自分の考えを売り込むという点では、通販番組とあまり変わらない(ノークレームノーリターン)。

 考察で大切なのは、「結果に基づく」と云うことです。結果を基に、先行研究なども参考にしながら、論理的に、蓋然性の高い結論を導き出す。これが重要。時々、先行研究の当てはめに必死な論文とかもあるけども、そういうのはちょっとなあ、と私は思う。あくまでも自分がやった何かしらの「事実」があるわけだから、それに基づいて何を考えるか、そこから何が明らかになったと考えられるのか、そこを示すのが最初にすることです。

 理系ではそういうことはないかもしれないけど、文系ではある程度推測に基づいて論を立てていくしか仕方がないところがある。人間関係を取り扱うような分野とかは、因果関係を導くような厳密な実験がとりわけ難しいから。で、最近思うのは、「あ、蓋然性ってことば、いいな」ということ。必然ではない。絶対ではない。しかし、「こうなったらこうなると考えていいよね」という蓋然性を高めていくことはできる。そこのロジックを組み立てていくのが「考察」なのではないかな、と云うのが私の考えだ。

 

 A小学校において、事前に一時間の説明を入れたのちに版画に取り組んだことからは、やはり彫刻刀の乱用は減ったと考えられる。表1のデータにあるように、具体的な数字になって現れているし、これは冒頭挙げた厚生労働省(2015)のデータと比べても明らかに少ない。

 では、これはA小学校に固有のものなのだろうか? そのことを検討するために、筆者が取り上げたいのは山本(2000)による次のような取り組みである。

 

 んー、あんま通販っぽくないな(笑)。まあいいか。

 ともかくここでは、結果に基づいて、実践結果をあれこれふり返り、当初の研究目的に向けて論を組み立てていくわけですな。その時には先行研究を参考にしつつ、自分の研究結果(データ)を用いつつ、さまざまな情報をもとに論理的に考えを深め、同業者になんとかして使ってもらえるような事実(や認識枠)を提示するのです。

 論文で一番大切なのは考察だけども(理系では結果のほうが大事かなあ)、それもつまりは、「この商品、便利でしょう?」を納得してもらうお話作りが必要になると云うことなのです。

 

 

 

 ……とまあ、こんなふうに思うんですけども、如何なもんでしょうねえ。とりあえず、過去記事も貼っておく。

 

librairie.hatenablog.com

 

 

*1:あ、私は文系研究者の端くれなので、理系研究者では「違うわ!」と云われる可能性もある。